川北稔『イギリス 繁栄のあとさき』講談社学術文庫 pp.34-35

 そのつもりで、18世紀のアムステルダム金融市場のデータを見ると、この地で資金を借りた政府は圧倒的にイギリスであり、ほかには、スペインやプロイセンなどが少し顔を出す程度である。フランスが途切れとぎれに現れるのは、ようやく1770年前後のことである。この頃には、ドイツの中・小領邦をはじめ、ロシア、ポーランドなど、ヨーロッパ中の弱小国が、ここで資金調達にあたるようになっており、自己資金で運用できるようになったイギリスは、かえって後退している。
 17世紀のヘゲモニー国家オランダは、18世紀には、なお残る金融面での優位を利用した金利生活者(ランチエ)国家となった。イギリスとフランスは、この世紀に覇権を争ったものの、結局、「オランダ資金」を引きつけたイギリスが、ほとんどすべての戦争を制する結果となった。19世紀の「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」、つまり「イギリスのヘゲモニー」は、こうして生まれたのである。

イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)

杉山正明『大モンゴルの世界』角川選書 p.162

 しかし、おそらくそれにもまして重要であったとおもわれる第二の理由は、雲南方面に産出する金銀であった。雲南・大理は古来、産金の地として有名なところである。そして、13世紀ころになると、銀の産出でも知られるようになっていた。
 地大博物といわれる中国ではあるが、中国本土(チャイナ・プロパー)に限っていえば、意外に鉱物資源にはとぼしい。ところが、雲南については、金銀ともに豊かで、たとえば、元代の1328年の統計でいえば、金は大元ウルス治下の全土の三八パーセント、銀は六六パーセントを占める。しかも、この統計は首都の大都や百万都市であった杭州などに関しては、商業・貿易利潤もふくんでいるようなので、純粋の産金・産銀高でいえば、金銀ともに七〇パーセントをこえるかもしれない。
 モンゴル時代に開発がすすんだ結果、明代になると、金銀ともに、その割合はさらに高まる。元代以後、歴代の中国政権が雲南地方を手放さなかったひとつのおもな理由は、おそらくこの点にある。

大モンゴルの世界―陸と海の巨大帝国 (角川選書)

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