セルジュク・トルコ帝国は、英主トグルルベク、アルプアルスラン、マリクシャー三代を経た後に国勢が衰微しかけた時、パレスチナにキリスト教聖地の問題から、西ヨーロッパの侵入をうけ、いわゆる十字軍戦争が勃発した。以後約160年間(1096-1254年)シリア海岸はイスラム・キリスト両教徒血戦のちまたとなり、東西両洋の交通貿易はこのために大きな障害をこうむらねばならなかった。世界的交通路の長期にわたる杜絶は必然的になんらかの副作用を招かずにはおかない。当時のヨーロッパ人にとって聖地の回復も熱望することであったが、戦争によって東方貿易路が閉塞し、必要な香料・調味料をインド方面から入手することができないのはいっそう困った問題であった。かれらはどんな手段に訴えても、当方の産物を獲得しようとした。この熱烈な要求に応じるためにかれらは黒海貿易路を開拓し始めた。これによればインドの物資はまず中央アジア、サマルカンド付近にで、そこからセルジュク・トルコ領を避けて北方に迂回し、黒海の北岸に沿ってヨーロッパに到達できるのである。この交通路はけっして新しいものではないが、いまや十字軍のためにシリア経由路が閉塞された結果、急に東西交通の大路として脚光を浴びて現われ、これに伴ってその沿線がまれに見る繁栄を誇るようになったのである。第四十字軍が目的地のシリアに向かわず、同盟国である東ローマ帝国を攻撃して、コンスタンチノープルを占領した目的は、かれらがこの新交通路のヨーロッパへの入口をおさえることにより、インド貿易の利益をほしいままにしようとする魂胆があってのことと察せられた。
このような交通路線の変更の結果、中央アジアのサマルカンド付近からカスピ海、黒海の一帯は、インド物資の往来によって時ならぬ繁栄を示した。カラハン王朝を併合した西遼が南下してサマルカンドの領有を企てれば、セルジュク王朝から新しく独立したホラズム・トルコ王朝もまたその利益に垂涎し、ついに西遼を撃退してサマルカンドを確保するのに成功し、さらにインドへの通路に沿って領土を拡張してインド国境にまで到達した。こうしてインドから黒海にいたる交通路を占領したホラズム王朝はほとんどヨーロッパにたいしてインド物資供給の独占権をもつようになり、その領内には新首都サマルカンドをはじめ、ボカラ、メルヴ、ウルゲン等の諸都市がいずれも中継貿易都市として空前の繁昌を誇った。そしてホラズム王国からヨーロッパに達する中間にはなお黒海が横たわり、その北岸にはトルコ系のキプチャク人が同様の利益を享受して、富強に向かいつつあった。蒙古においてジンギス汗が出現したのはまさに、中央アジアでのこのような状態に際会したのである。中央アジアの繁栄が、蒙古人の掠奪の対象として指向されるのはまったく時機の問題にすぎなかった。
アジア史概説 (中公文庫)