杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉』講談社現代新書 pp.205-206

 マムルーク朝にとっては、肝心のボスポラスを敵のラテン人が支配していた。ところが、ここでもまた、偶然と言えばあまりにも偶然なほど都合よく、1261年に変化が起きた。ニカエアに逼塞していたビザンツ帝国が、コンスタンティノープルを取り戻したのである。バイバルスにとって、視野は開けた。「ビザンツ皇帝」と言っても、ごくささやかな力しかなかったが、ともかく皇帝ミカエル・パラエオログスは、フレグの動向を気にしながらも、妨害はしなかった。ここに、フレグ・ウルスを敵とするヴォルガとナイルの南北同盟が成立したのである。
 これは、「イスラーム・キプチャク同盟」と言ってよい性格をもっていた。バイバルス自身をはじめ、マムルーク戦士の多くは、キプチャク草原の出身者であった。ずいぶん前から、ジェノヴァを筆頭とする黒海貿易に従事する奴隷商人の手を経て、かの地の若者たちは中東ヘ売られ、そこで「マムルーク」、すなわち奴隷軍人となった。キト・ブカのモンゴル軍を打ち破ったのは、こうしたトルコ系の騎馬戦士軍団であり、実のところ、モンゴル軍とマムルーク軍は似た者同士なのであった。急速にトルコ化、キプチャク化したジョチ・ウルスとエジプトのマムルーク朝とは、「兄弟国」と言っても差し支えない面々から成っていた。しかも、ベルケがイスラーム信仰を受容したことは、バイバルスにとって「イスラームの大義」を主張できる好条件となった。
 はさみ討ちにされる格好となったイランのフレグとその後継者たちは、この「縦」の同盟に対して、ヨーロッパのキリスト教世界に「横」の同盟を求めざるをえなくなった。この頃、フレグ家とそのウルスにはまだイスラーム色は薄く、むしろネストリウス派キリスト教の方に親近感を抱く者の方が多いくらいであった。

モンゴル帝国の興亡<上> (講談社現代新書)

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