ところで李克用は、当時のいずれの軍閥にも流行した風習に従って、多くの義子をもっていた。かれが最後まで後梁の圧迫に対抗しおおせたのも、この義子たちの尽力によるところが多かった。李克用の義子は百余人におよぶといわれ、李嗣源、李嗣昭、李嗣本、李嗣恩、李存信、李存孝らが著名である。また李克用には義児軍と称する部隊があり、それは義子によってひきいられたと考えられる。
義子とか仮子とかいう形態をとらないまでも、私的・個人的関係によって結ばれた腹心的兵力をおいて権力を強化することは、この時期の節度使の一般的な傾向であった。すでに唐の中期以後、節度使が仮子関係によって結ばれた集団的武力を身辺におくことは、かなりひろく行われていた。安祿山も“曳落河”と称する数千人の養子部隊をもっていたという。ただ李克用のばあいに、多数の個々の義児たちが権力の中枢部を握るにいたったのが特徴的であった。
義子とか仮子のような個人的結合関係は、古今東西を問わず、その中心となる主将の他界によって、容易に解体しかねないもろさをもっている。李克用の集団においても、その弱点が克用の死によって暴露された。李存勗は晋王の位についたが、克用の義子たちのほうが年長でもあり、兵権を握っていて、存勗の襲位をこころよく思わないものもいた。
馮道―乱世の宰相 (中公文庫BIBLIO)