臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書 pp.42-43

 プロイセンはナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で、フランス、ロシア、イギリス、オーストリアに次ぐヨーロッパ第五の強国としての地位を確立した。しかし、それからすでに半世紀を経ている。プロイセンはオーストリア帝国を相手に、ドイツ統一の担い手を自負するに至っていた。が、プロイセンは依然として、陸軍大国でしかない。世界列強に名を連ねるための絶対必要条件というべき強力な海軍がない。海洋を舞台とする世界交易の時代に、プロイセンは完全に立ち遅れている。しまも、プロイセンのライバルというべきオーストリアはイタリアの海岸部を自分の領土とし、トリエステを基地に強力な地中海艦隊を保有していた。
 オーストリア地中海艦隊の活動が地中海に限られているなら問題はない。プロイセンにとって問題なのは、オーストリア地中海艦隊がジブラルタル海峡を廻って北海に出没し、盛んに「ドイツの艦隊」とはオーストリアの艦隊であることをデモンストレーションしていることであった。そこにはハンブルクやブレーメンといった、みずからは戦闘能力を保有しないことを売り物にしてはいるものの、やはり、いざというときには自分たちを守ってくれる海軍力を有した統一ドイツを望む、ドイツ語圏有数の商業拠点でもある帝国自由都市が並んでいた。もし、ハンブルクやブレーメンがプロイセンよりも、オーストリアとの友好を優先でもしようものなら、プロイセンを中心とする小ドイツ主義的ドイツ統一などありえない。
 しかも1856年、オーストリアがノヴァラ号によって世界周航という快挙を成し遂げていた。それに対して、初期のプロイセン海軍はもっぱら沿岸警備が目的であった。この海軍力の差は、ドイツ統一の主導権争いに決定的な影響をおよぼしかねなかった。

榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

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