同様のことは、さらに約50年をおくれて中国に出現した秦の始皇帝の政治方針についてもいえる。始皇帝が六国を平定すると、たびたび地方を巡狩して石に刻んで功を記したことは、それ以前の中国ではほとんど見なかったことであり、東は燕斉にいたり南は呉楚にいたる馳道を造って遠隔の地を国都咸陽に結合し、文字を一定にし、貨幣の重量を定めたことなどはたんに偶然の一致としてだけでは見逃せないものである。西アジアと中国との交通は歴史の記載に現われるものを待つまでもなく、すでに有史以前から行なわれた実証があるから、それ以後、時に断続はあっても、意外に密接な連絡のあったことを想像した方が事実に近いであろう。
アジア史概説 (中公文庫)