16世紀半ばの倭寇の被害、および明政府からみればもっとも侵略的な倭寇ともみえた同世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略など、度重なる事件によって日本にたいする強い不信感をもっていた明政府は、日本と中国とのあいだの直接的な貿易を禁止する政策を取り続けた。中国の生糸と日本の銀という、当時の東アジアでもっとも利益のあがる貿易は、同時にもっとも政治的な障害の大きな貿易でもあったわけである。もっとも官憲の禁止をかいくぐって日本に来航する中国船は跡を絶たなかった。
そのなかで、日中双方に貿易拠点を確保したポルトガルがまず、16世紀後半に中国貿易を掌握したことはさきにみた。しかし、16世紀の末には、ポルトガルの優位はしだいにゆらいでくる。新興勢力オランダや日本の朱印船といいたライバルの進出に加えて、ポルトガルの貿易と結びついた宣教師の布教活動にたいする日本政府の弾圧が始まったからである。ポルトガル勢力の動揺にともなって脚光を浴びるようになったのが台湾である。もともと台湾には現在「高山族」などと呼ばれている先住民が住んでいたが、中国本土とはあまり関係がなく、漁船がたちよる程度であった。しかし、中国本土に拠点をもたないオランダや日本、スペインなどにとって、台湾は中国帆船との出会い貿易の絶好の拠点とみなされた。オランダは、スペインや日本と競合しつつ台湾に進出し、1624年、台湾南部の安平にゼーランディア城を築いた。
当時中国の東南沿岸では多数の武装海商集団が活動していたが、生糸をはじめとする中国物産を供給してくれるパートナーとしてオランダが選んだのは、鄭芝龍という人物であった。鄭芝龍は日本の平戸に住んでいたときに日本人女性田川マツとのあいだに子どもを設けたが、これが清朝の中国占領後に最大の反清勢力を率いることとなる国姓爺こと鄭成功である。鄭芝龍は1630年代半ばに中国東南沿岸の海上支配をかため、鄭芝龍とオランダの連携のもとでポルトガル抜きの日中貿易が順調に動きはじめた。徳川幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁止し、オランダ船と中国船のみの来航を許した背景には、こうした日中貿易の覇権の交替があったのである。
東アジアの「近世」 (世界史リブレット)