川口マーン惠美『ベルリン物語』平凡社新書 pp.45-46

 イギリスの産業革命から半世紀以上も出遅れ、ようやく1830年代の終わりに始まったドイツの工業化が、なぜこれほど急速に進んだかというと、いくつかの理由が挙げられる。つまり、遅れていたからこそ、新しく建設する工場に最先端の技術を導入することができ、生産効率が高かったこと、また、遅れを取り戻そうとした政府が、積極的に資金を投資したことなどである。ドイツ産業の強みは、石炭、製鉄、機械にあった。そして、鉄道の大々的な敷設が、それらの産業の発達を強力にバックアップしていた。
 ドイツに初めて鉄道が通ったのは1835年のことで、ニュールンベルクからフュルトまでのわずか6キロだった。同じ頃、イギリスでは544キロの鉄道網が整備されていた。しかし、このあとのドイツの巻き返しは早い。三年後には、ベルリン-ポツダム間、その翌年にはライプツィヒ-ドレスデン間が開通し、鉄道開通のわずか五年後の1840年には、469キロになっていた。これによって石炭など資源の輸送が合理化され、また、農産物や工業製品の輸送も安価で迅速になり、流通は格段の進歩を見せた。
 ただ、急速な工業化と連動して、様々な社会問題が発生した。都市部に労働者が集中したため、住宅不足が起こり、労働者の生活環境は甚だしく悪化した。また、病気になったり、年老いて働けなくなれば、労働者の生活はその日から困窮した。長時間労働や危険労働、低賃金、一方的な解雇、あるいは児童就労といった状況を前に、労働者は自己を守る術を一切持たなかった。資本家は、ますます力を蓄え、有利な立場から労働者を搾取したため、ドイツ帝国が豊かになっていくのに反比例するように、労働者階級の貧困化が進んだ。このような状況から、必然的に労働運動が萌芽した。
 労働者の間に少しずつ権利意識が芽生え、労働運動が起こり始めたのは、1860年代だ。労働運動の牙城はベルリンである。1875年には、社会民主党(SPD)の前身である社会主義労働者党が結成された。そして、1878年10月に社会主義運動を弾圧する法律が制定された。

ベルリン物語 都市の記憶をたどる (平凡社新書)

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