君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.73-74

 1701年、ウィリアム3世は王位継承法により、イングランド王位にカトリック教徒は即けず、また王族もカトリック教徒との結婚を禁ずると制定した(この法律は21世紀の現在でも有効である)。この翌年、ウィリアムは落馬事故が原因で急死し、義理の妹アン女王(在位1702~14年)が即位した。
 アンの後継者としてハノーファー選帝侯を推す方針には根強い反対も見られた。特に、イングランドと同君連合で結ばれるスコットランドでは、ブリテン島に一度として足を踏み入れたことのないドイツのお殿様より、ジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを改宗させたほうがまし、との意見も出されていた。
 ここでせっかく百年も続いてきた同君連合をお終いにするのは危険である。そう感じたイングランドの政治家たちは、スコットランドに働きかけて、国同士の正式な「合同」にしたいと持ちかけた。イングランドへの従属に批判的な声も見られたが、スコットランドの大勢は合同に傾いていた。ここに1707年5月1日をもって、グレート・ブリテン連合王国が成立した。いわゆる「イギリス」の誕生である。
 その7年後の8月1日、アン女王は世継ぎを残さずに亡くなった。訃報はハノーファーにも届けられ、選帝侯ゲオルグがイギリス国王ジョージ1世(在位1714~27年。ジョージはゲオルグの英語読み)に即位することとなった。ハノーヴァー王朝(1714~1901年、ハノーヴァーはハノーファーの英語読み)の成立である。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

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