宮崎市定『東西交渉史論』中公文庫 pp319-321

 モンゴル民族の西方遠征をひきおこした遠因は、別に十字軍の東方へ及ぼした影響の中においても探すことができる。それは東西交通路の変遷である。十字軍は結果としてヨーロッパとアジアとの交易を促進したことになったが、ただし十字軍が戦われていた当時においては、戦争が交易を妨害したであろうこと、察するに余りある。ところでこの戦争の舞台は極めて広く、小アジアからエジプトに及び、古代の絹街道の西端は何れの出口も悉く封鎖を受けた結果となる。そこでもしヨーロッパ人が戦争に捲きこまれる危険を避けて東方へ安全な交通路を求めようとすれば、それは思い切って遠く北方を迂回し、黒海、カスピ海の北をまわって中国へ達する外より途はない。恰もよし、中央アジアまで到達すれば、その東は遼の大版図に接続する。そしてこの遼王朝から、或る種の中国産物を求めることができる。例えば絹である。遼は宋から歳幣と称して年々、絹三十万匹、銀二十万両を受ける条約を結んでいる。このうち銀はおそらく中国と貿易するときの代価を意図し、絹は西方貿易の際の見返り物資に用いる目的であったと思われる。これに倣って西夏も宋から銀・絹・茶を贈与されて平和を保つ約束をしたが、茶は自国消費用、銀・絹はそれぞれ対中国、対西方の貿易用であろう。そこで、東ローマ帝国の都コンスタンチノープルから、黒海の北岸に渡り、陸路カスピ海の北をまわり、アラル海の北から天山山脈の北に沿って東に進み、西夏領の北端をまわり内蒙古を経て遼の国都臨潢、或いは南京(今の北京)に達する大カラバン道路が開通したことになる。
 もしヨーロッパからインドへ到達しようとするならば、アラル海の東において南に折れ、サマルカンドの辺で古代絹街道を横断し、アフガニスタンから北インドに入る。そこでサマルカンド近傍は従来の絹街道と新開唯一のインド通路との交差点となって、空前の繁栄を極めるようになった。セルジュク・トルコ王朝が衰頽に向った頃、ここを中心としてフワリズム王朝が富強を誇ったのは、このような交通の要衝を扼したがために他ならない。

東西交渉史論 (中公文庫)

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