注釈がしだいに加重されてゆく理由はまた別にあった。元来経書はそれぞれが分離して単独に行われて来たので、一つの経書が一家の学をなし、一家の学だけで完成されたものと考えられていたから、家学と家学との間の横の連絡、経書と他の経書との間の相互の関係は別に問うを要しなかった。然るに後漢の頃より一人にして数経を兼ぬることが流行となった。馬融、鄭玄等はかかる兼経の大学者である。彼等は勢い一経と他経とを比較したために新たに起さるる疑問に対して解決を与えねばならなかったので、これが彼等が数多の経書に対し、同時に注を施した理由であった。唐代に至って科挙が盛んとなり、この際には試験問題として経書の本文を出し、これに対する解釈を求むるのであるから、基本となるべき権威ある参考書が必要となる。これ唐代において五経正義、即ち五経に対する疏が撰定され、勅命によって公布せられた理由である。
アジア史論 (中公クラシックス)