山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書 pp.40-41

 ロシアが東アジアに進出する契機となったのは、アムール川(黒竜江)を両国の国境とし、その航行権などを清朝に認めさせた1858年の愛琿条約でした。清朝はこれを不満として争いますが、1860年、ロシアはアロー戦争における英仏連合軍の北京侵攻にあたって和議を斡旋した報償として、北京条約によって愛琿条約を再確認させるとともに、新たにウスリー川東岸の沿海州(プリモルスキー)を割譲させます。そしてロシア語で「東方を征服せよ」を意味するウラジオストクを海軍基地として開港しました。
 さらに、1878年のベルリン会議によって中東への進出を阻まれ、中央アジアでイギリスと対峙することになったロシアは、東アジアへの進出を図ります。しかし、タタール語で「眠れる大地」を意味したシベリアという広大な未開発地域があることによって、ウラル以東に軍事的行動をとることができず、東アジア政策には制約が伴っていました。
 この当時、世界の制海権はイギリスに握られており、特に東大西洋と地中海、インド洋などヨーロッパからアジアに至る海上交通路はイギリス海軍の手中にありました。そのためヨーロッパ諸国のアジア政策は最終的にイギリスによって左右されることになり、これによってパクス・ブリタニカ(イギリス主導の世界平和)が維持されてもいたのです。こうしたなかでロシアだけが陸路を通じてヨーロッパからアジアに至る可能性をもち、イギリスの制海権から自由に行動して、イギリス主導の国際政治に挑戦しうる潜在的な条件をもっていました。つまり、ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道が開通すれば、ロシア陸軍を東アジアに大量に短時日で動員できることとなり、イギリスの海軍力はそれに対する抑止力にはなりえなくなります。これはイギリスが中国において保ってきた通商権益や外交的優位性をくつがえすだけでなく、ウラジオストクから香港に至る制海権をロシアに握られる可能性を意味しました。実際、イギリスは香港以北にひとつの軍事基地ももっていませんでしたから、軍事バランスが大きく変ることは必然でした。

日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界 (岩波新書 新赤版 (958))

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