だが、アナトリアにとってより重要なことは、世紀の前半に行われたモンゴルの一連の西征活動によって、中央アジア、イラン方面から多数のチュルクメンが新たに流入してきたことである。マラーズギルトの戦いを大きな契機とする11世紀末の侵入を第一波とするなら、モンゴルとともにやって来た13世紀半ばのこの移住は、間違いなく第二の波であった。それは、ルーム・セルジュク朝のもとでいったんでき上がった秩序の動揺を呼び起こした。
ルーム・セルジュク朝では彼らチュルクメンを辺境地帯へ送り込み、秩序の維持を図ったが、やがて彼らは、それぞれに自己の勢力を確立しようとすることになる。
1253年、第四代モンゴル皇帝モンケの命によって、弟のフレグが西方遠征に発ち、58年にはバグダードを征服してアッバース朝を滅ぼした。こうして「フレグ・ウルス」いわゆるイル・カン国が建てられると、アナトリアは、イランを支配するこの国の宗主権下に置かれることになった。これに対してアナトリアのチュルクメン諸勢力はたびたび抵抗を示していた。そして14世紀に入って間もなくルーム・セルジュク朝の王統が絶え、さらにモンゴル勢力が後退し始めると、アナトリアでは各地にチュルクメンの君侯国が自立、割拠して覇を競うことになった。
そしてその中の一つが、オスマン(?~1326)によって率いられた集団なのであった。
オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))