司馬遼太郎『中国・閩のみち 街道をゆく25』朝日文庫 pp.35-36

 福建省は、中原文明に化せられるのが、淅江省よりはるかに遅れた。大いなる拡張主義だった秦ノ始皇帝がいまの福建の一部に「閩中郡」を置いた(『史記』の「東越伝」)といわれるが、ごく形式的なものだったはずである。
 唐も晩唐になって、やっとここに組織的に漢人の集団が入ってくる。当時、中国内地はみだれていて、各地で流民が蜂起していた。そのなかにあって、中原の河南省の豪農だった王潮と王審知という兄弟が私軍をひきいて各地を転々し、ついに福建五州に入って、ここに漢族による征服王朝を樹てた。
 滅亡寸前の唐王朝は王潮に節度使の官職をあたえ(898年)、唐がほろんでのち、後梁が王審知を「閩王」として封じた(909年)。その後、王氏の閩王朝は、中国内地から独立した。ただ、漢文明はたっぷりと導入した。
 その閩王朝も、数代でほろび、福建省が堅牢なかたちで中国の版図に入るのは978年で、この年宋に統一された。しかも、入るやいなや、一種、スターとしての栄光を得た。アラビア人による海洋貿易が福建の諸港と福建人を世界経済の中にまきこみ、中国の重要な顔になった。福建人は、航海者として活躍しはじめた。

街道をゆく〈25〉中国・ビンのみち 朝日文庫

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