マラッカ占領後、ポルトガル人は港の関税という財源を確保するために、今までのマラッカが持っていた扇の要のような重要性を必死で守りぬこうとし、アジア諸国の商人をマラッカに寄港させようとして懸命の努力を続けるが、彼らは高い関税や貿易上の種々の拘束を嫌ってポルトガル占領後のマラッカを避けるようになる。かつての扇の要としての地位は次第に失われていくのである。そして、アジア商人達はマラッカ海峡という絶好の紅海条件をあえてさけてまで、これに代わる寄港地を求めて狂奔することになる。まずポルトガル人によってマラッカから追われた旧王室はジョホールに移って僅かに余命をつないでおり、この港もマラッカ海峡の入口を占める好位置にあったが、何分マラッカそのものに近すぎるために、アジア商人たちはそれ程ジョホールに寄港せず、むしろスンダ海峡から荒波のスマトラ西岸を廻ることによって全くマラッカ海峡を避けることが一般的となった。この場合に絶好の寄港地としてクローズアップされたのが、スマトラ西北端のアチェーである。附近の港市ペディールの支配を脱して今まさに勢力を伸しつつあったアチェーはアジア商人、とくにイスラム教徒達の停泊地として急速に発展する。さらにこれらの商人達はインド沿岸のカリカットやゴアなどのポルトガル人の根拠地を避けて、インドの南西方にあるマルディヴ諸島を経由し、やはりポルトガルの支配下にあるペルシア湾頭のホルムズを避けて、紅海に入ったのである。このような航路の変更は、ポルトガルの進出なしには考えられなかったであろう。
オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)