遅塚忠躬『フランス革命』岩波ジュニア文庫 pp.91-93

 89年以後、はじめにあらわれたのは、PからQに向かう妥協的改革路線でした。それは、89年の大衆の蜂起によって深刻な危機感を抱いたブルジョワが、大衆と手を切るbの動きをとったからです。しかし、この路線は、大衆の強い不満をもたらし、長続きしません。とくに、保守的貴族がオーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んで反革命運動を強めると、それに対抗するには、やはり大衆の力を借りなければならないことがはっきりしてきます。そして、92年にオーストリアやプロイセンとの戦争が始まり、国境の危機が迫ると、92年8月10日の大衆蜂起によってこの路線は崩壊し、王政が倒れてフランスは共和国になります。
 そこで、ブルジョワは、大衆と手を結ぶcの動きをとり、ここで路線はPからRに向かう徹底的革命路線に転換します。しかし、この路線も長続きしません。なぜなら、大衆のdの運動は、資本主義反対運動と表裏一体になったもので、ブルジョワは大衆の反資本主義的な要求に譲歩できなくなるからです。そのため、共和国軍の奮戦によって国境の危機や反革命内乱がしずまると、ブルジョワは再び路線を転換します。その再転換点が、94年7月27日(テルミドール9日)のクーデタです。しかし、その再転換は、もとのQへの復帰ではありません。ひとたび徹底的革命路線をとって諸政策を実施したのちには、もとのQにもどることはできないのです。結局、フランス革命派、1799年11月9日(ブリュメール18日)に、ベクトルPQとベクトルPRとが最終的に合成された終点Sで終結し、その遺産をナポレオンにひきわたすのです(テルミドールとかブリュメールとかいうのは、93年に制定された共和暦での月の名前です)。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

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