高谷好一『多文明世界の構図』中公新書 pp.23-24

 それまでのタイはいってみれば、どこにでもある港町の一つでしかなかった。もとはといえば、今のタイ国の始祖は200年ほど前、それまでは取るに足りない寒村であった今のバンコクの地に港を開き、南海物産を中国に輸出することを始めたのである。この貿易は有利な事業であったから、オランダなどの外国勢もそれに参加した。バンコクにいた王はそれらの外国人に港を貸したりして儲けていた。要するに王は海商であり、港の経営者だったのである。これは東南アジア海域ではごく普通のことであった。
 こういうところにイギリスから、近代資本主義経済に参画しろ、という外圧が加わってきたのである。これに対する王の対応は素晴らしかった。一介の海商が見事に脱皮して、この国際化の中で生きのびていくのである。タイ・デルタ世界の形成については、この王の聡明さを見逃してはならない。
 イギリス人ボウリングが開拓を強く迫ったのに応えて、ラーマ4世王(モンクット)は華僑労働力を利用してこれをやりとげた。海商が一挙に巨大な米プランテーションの経営者に転身していったのである。実際それは技術的にも大変なことであった。半年は全面が水没し、後の半年は砂漠のように乾ききってしまうのがデルタであった。この荒々しい環境のために、それまではとうてい人が住めるなどとは思われていなかった大デルタ地帯に、王は縦横に運河網を掘りめぐらし、そこを居住可能な、したがって稲作の可能な空間に変えてしまったのである。開田工事は1860年代に始まり、19世紀の末には百数十ヘクタールの荒蕪地がほぼ全面稲田に変わった。今日のバンコク周辺のあの大水田地帯はこうしてできたのである。

多文明世界の構図―超近代の基本的論理を考える (中公新書)

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