岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫 pp.104-105

王莽は熱心な儒教の信者で、儒教の予言に従って漢を乗っ取り、儒教の理論を守って政治を行った結果、中国世界は全面的に崩壊し、王莽も滅亡したのである。王莽は滅亡したが、代わって漢を再建した劉秀(光武帝)もやはり儒教徒で、儒教は後漢の政治の指導原理の地位を保った。つまり儒教の隆盛は王莽のお陰であった。
 「漢書」の末尾に「叙伝」という一篇があって、著者の班固が自分の出身と、著作の意図を述べているが、その中には、班固が王莽に寄せる好意が歴然と表れている。
 「叙伝」によると、班固の家の始祖は山西の北部、モンゴル高原に接する国境地帯で、馬・牛・羊数千頭を所有する、地方の有力者であった。班固の曾祖父の班況は三人の息子があった。その末子が班穉で、すなわち班固の祖父である。
 漢の元帝の皇后(元后)は王氏の出で、成帝を産んだ。前33年、元帝が死んで二十歳の成帝が皇帝となると、成帝の母である元后の兄の王鳳が後見役の大将軍となって、政治の全権を握った。王氏が勢力を得たのは、これからのことである。王鳳の弟の王曼の子が、王莽である。
 班穉の長兄の班伯は、若くして『詩経』を学び、大将軍王鳳の推薦で、成帝の御学友となった。これは姉が、成帝の妾だったからである。
 王莽は、班穉兄弟と同年輩で仲がよく、班穉の次兄を実の兄のように尊敬し、班穉を実の弟のようにかわいがった。班穉の次兄が死んだとき、王莽は特に喪に服し、多額の香典を贈った。班穉の息子の班彪が、『漢書』の著者の班固の父である。

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

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