松田壽男『アジアの歴史』岩波現代文庫 pp.160-161

 春秋・戦国(中国)対楚(非漢人)、また南北朝、さては金対宋といった中国の二分が秦嶺=淮河線に拠っていることは、すでに述べた。もちろんこのような風土区分は、もっと細かくされてよく、それは一応図27のように考えられるであろう。この地域区分は、しばしば政治圏を分立させたことは注意しておかねばならない。春秋=戦国時代での漢人系諸国の配置は、まさにその典型であって、燕(河北)、斉(山東)、晋(山西)、秦(陝西)の名は長く地方名として伝わり、現在も各省の慣称として残っている。五胡十六国のうち、燕を号したもの三(鮮卑の慕容氏、北燕は例外)、秦と称したもの三は、同じ観点から、その位置を確かめることができる。同じく涼を称した五国は河西(涼土)での立国、趙を称したもの二は、三晋すなわち韓・魏・趙の分立から推せる。秦嶺=淮河線以南はそのころまで新開地であったから、地域区分も大ざっぱであったが、五代十国になって、それが明瞭に政治区画として浮かびあがっている。蜀(四川)、荊南、楚、呉、呉越、閩、南漢などの諸国を見るがよい。

アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像 (岩波現代文庫)

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