新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』講談社選書メチエ pp.193-194

 だが1688年には、イギリス名誉革命の余波が東方へおよんでいた。ルイ14世の膨張政策にたちはだかるアウクスブルク同盟諸国がイギリスとともにフランスとの戦争に踏み切り(プファルツ戦争)、皇帝は、同盟の一員として多くの兵力を、この対仏戦争に振り向けなければならなくなったのである。同じ年ローマ教皇も没して、「神聖同盟」は勢いを失う。そして同じ頃、イスタンブルではキョプリュリュ家が大宰相に復帰していた。ファーズル・アフメット・パシャの弟(つまりカラ・ムスタファの義弟)であるファーズル・ムスタファ・パシャである。このムスタファ・パシャはテケイ・イムレもつ勝手トランシルヴァニアで反攻を試み、セルビアの大半を奪還するとともにベオグラードをも取り返したのだった。
 さらに1696年にはソビエスキが死んで、ポーランドはフランス、オーストリア、ロシアの各国が推す国王候補が、それぞれ傀儡として王位を争う状況に陥る。結局1697年、ザクセン選帝侯が皇帝ツァーリに支持され、カトリックに改宗した上でアウグスト2世として即位することになった(のちにスルタンから軍楽隊を贈られるのはこの王である)。こうしてポーランドは、独立の地位を実質的に失っていったのである。そしてこの年の9月、オスマン軍もハンガリー中部、(170年ほど前にスレイマン1世がハンガリー王ラヨシュ2世を撃破したモハッチにもほど近い)ゼンタにおいて、大敗北を喫することになった。この敗戦を機に、オスマン側にも和平交渉に応じようとする機運が生じる。ちょうどこの1697年、ライスワイク条約によって西方でのプファルツ戦争が集結し、このままではレオポルト1世が全軍を東方へ向ける可能性が出てきたからである。
 この長い戦争を終わらせるため、仲介に動いたのはイギリスだった。なぜならまず、イギリスにとって皇帝軍は、オスマン帝国にではなく、フランスに向けられるべき力だったからである。レオポルト1世の全軍を西方へ向けさせるためにも、イギリスには、まずオスマン帝国と「神聖同盟」との戦いを終わらせる必要があった。またオスマン帝国との戦争は、東地中海交易にとって大きな痛手だった。イギリス製毛織物をイスタンブルで消費させることが、戦争によって妨げられるからである。さらにルイ14世は「盟友」オスマン帝国に対し、レヴァント貿易からヴェネツィア商人を追放すること、そしてその地位をフランス人に与えることを働きかけていた。重商主義政策のもとでフランスと海上覇権を争うイギリスと、そしてこの時期イギリスと同君連合を形成していたオランダとが、こうして講和の仲介役をかって出た。
 交渉は1698年の10月に、セルビア北部の小邑カルロヴィッツで始められた。難航した会談は、それでも翌1699年1月26日に調印され、ようやく東方に平和が訪れた。この条約でハプスブルク家はオスマン帝国からハンガリーを譲り受け、さらにトランシルヴァニア、クロアティア、スロヴェニアの領有権をも獲得した。

オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))

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