百済が、南朝(六朝)の文化を模倣したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。南朝は六代のどの王朝の貴族もはなはだしく仏教を溺愛した。仏寺の勢力はほとんど国家と拮抗し、貴族たちは国王を畏れるよりも仏罰をおそれ、極端にいえば仏事にほとんど淫したといえるほどの態度でおぼれた。この百済にとってはるかな揚子江以南の文化が、そのまま百済の体質になった。百済が、それよりも野蛮な新羅にほろぼされるのは、国家の独立よりも思想や芸術に惑溺するという江南の爛熟しきった文明体質をそのままうけ容れてしまったことにもよるし、六朝のほろびとともに百済はほろぶという不思議な結果をまねくのである。
街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)