芝原拓自『世界史のなかの明治維新』岩波新書 pp.18-20

 たしかに当時のイギリスは、海外での大軍事行動にいそがしかった。黒海さらに地中海へのロシアの南下をおさえるとして、フランスと連合してクリミア戦争(1853-56)を戦ったイギリスは、クリミア半島のロシア軍要塞セバストポリを、三四九日間にわたる激戦のすえに陥落させた。その戦勝の直後に、中国でアロー号事件が勃発した。広東に停泊中のイギリス船籍をもつアロー号を、中国船とみなした中国官憲が臨検し、一二人の中国人船員を海賊容疑で捕えたのが事件の発端である。のちに第二代駐日公使となった広東駐在領事パークスは、無断捜査と国旗侮辱への謝罪、および乗組員のひきわたしを要求し、アロー号にイギリス国旗はなかったと謝罪を拒否する中国側との交渉を決裂させ、広東で砲火をまじえたのである。
 イギリスはいそぎ大軍を派遣し、エルギン伯爵を全権大使に任命した。フランスも、広西省でのフランス人宣教師殺害事件への賠償要求を口実として、グロー男爵を全権大使に任命し、イギリス軍との共同行動をとることにした。ところがエルギンは、中国への途上、セイロンでインド人兵士(セポイ)の反乱の急報に接し、軍の一部をインドに送った。イギリスのインド植民地支配にたいする、最初の全土的独立戦争(1857-59)が勃発したのである。イギリスは、クリミアの戦勝もつかのま、ふたたびインドの各地に大兵を派して、鎮圧に二年以上も要した。しかもその間、英仏軍は中国で広東を占領し、さらに上海から華北に兵をすすめ、天津や首都北京につうずる白河河口の大沽砲台を攻撃してこれを占領した。こうして、第一次アヘン戦争による南京条約よりもさらに屈辱的な天津条約(1858)を中国におしつけ、あらたな数港の開港、揚子江の通商航行権、公使の北京駐在権、外国人の内地旅行(商用・布教・遊歴を問わず)権などを獲得した。

世界史のなかの明治維新 (岩波新書 黄版 3)

梅田修『地名で読むヨーロッパ』講談社現代新書 p.62

 やがて、ポリスと言えばコンスタンティノープルを意味するようになり、「都へ」という意味で、一般にエイステーンポリーン(eis ten polin:城壁内へ)が使われるようになります。nの後のpはbに変わるので実際はエイステーンボリーンに近かったと考えられます。ギリシャ語eisはek(外へ)に対応する言葉ですので、「内へ」を意味する言葉でした。tenは冠詞です。このエイステーンボリーンがオスマン・トルコの支配下で、イスタンブール(Istanbul)とかスタンブール(Stambul)と呼ばれるようになるのです。

地名で読むヨーロッパ (講談社現代新書)

梅田修『地名で読むヨーロッパ』講談社現代新書 pp.40-41

 キプロス島は、フェニキア人が最も早く植民地を開いた所で、紀元前3000年ごろの遺跡さえ確認されています。地名キプロス(Cyprus)はギリシャ語kypros(銅)に由来するもので、このギリシャ語は英語copper(銅)の語源でもあります。フェニキア人は青銅器の出現とともに歴史に登場してきましたが、キプロスの上質な銅は、フェニキア人にとっては特に重要な交易品でした。

地名で読むヨーロッパ (講談社現代新書)

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