コメの輸出自体はすでに「開国」前から存在しており、古くはアユッタヤー時代にまで遡る。ところが、19世紀に入り東南アジアに列強諸国から本格的に進出し、植民地経済が構築されていくと、島嶼部を中心にコメの需要が急増した。すなわち、島嶼部において列強諸国が特定の商品作物栽培を奨励あるいは強制した結果、消費用のコメを外国に依存する必要が生じたのである。この島嶼部の「米蔵」として注目を浴びるようになったのが、大陸部の三つのデルタ、すなわちエーヤワディー、チャオプラヤー、メコンの各デルタであった。以後タイにおける商品作物としてのコメの栽培の急速な拡大をもたらし、これまで人家もまばらで猛獣の跋扈していたチャオプラヤー・デルタが運河掘削によって一大水田地帯へと変貌する契機でもあった。タイのコメ輸出量は、バウリング条約締結当時は年五万トン程度に過ぎなかったが、19世紀末には五〇万トンに達するまでに拡大した。
物語タイの歴史―微笑みの国の真実 (中公新書 1913)