越智道雄『大英帝国の異端児たち』日経プレミアシリーズ pp.127-128

 この状況で1874年、二度目の政権を奪ったディズレーリは、どうしたか?ついに「露土戦争」(1877~78年)が勃発、キリスト教と救出を名目にバルカンに侵攻したロシアが勝って、ビスマルクが戦後処理にかこつけて自国の勢力を扶植すべく「ベルリン会議」(1878年)を開いた。プロイセンにバルカンで漁夫の利を占めさせれば、すでに普仏戦争(1870~71年)に大勝したプロイセンが、ロシアに加えて新たな脅威となる。まずディズレーリが女王を「インド女帝」に祭り上げたが、それは以下の戦略に基づいていた。
 (1)ロシア皇帝より格上げし、中央アジアをロシアから奪取してカスピ海以西に封じ込める。(2)そのためにアフガニスタンに侵攻までした。(3)そこで彼はプロイセン、ロシア、トルコの間に割って入り、バルカン四国の独立に対してはトルコのためにケチをつけた(ブルガリアの完全独立を阻止)。(4)ロシアにはカフカスの領有権だけで抑えた。(5)さらにディズレーリは抜群の海軍力にもの言わせてダーダネルス海峡に艦艇を派遣して示威行為を展開、ちゃっかりキプロスの占領行政権をせしめて、ビスマルクに「あのユダヤ爺めが、やりおるわ」と舌打ちさせたのである。
 結果的にプロイセンにロシア封じ込め役まで押しつけたディズレーリは、以後三十六年間、ヨーロッパから戦火を遠ざけた。まさに「一角獣」が、縦横無尽に突きまくったのである。

大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)

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