井上浩一・栗生沢猛夫「ビザンツとスラブ」中公文庫 pp.418-419

 14世紀は東中欧諸国にとって黄金時代であった。ドイツつまり神聖ローマ帝国は皇帝と教皇の権力争いで東中欧に介入する余裕を失い、13世紀には猛威をふるったモンゴル(キプチャク・ハン国)も、また南方の大国であるビザンツも急速に受け身になったからである。それに何よりも各国の経済的発展と内的安定化が大きかった。この時代、東中欧には二人の皇帝(神聖ローマ皇帝カール4世と「セルビア人とローマ人の皇帝」ステファン・ドゥシャン)と二人の大王(ポーランドのカジミェシ3世とハンガリーのラヨシュ1世)がでた。各国の国内情勢を詳しくみればこの繁栄はある程度表面的だったと言わざるをえないが、他の時代と比べれば、たしかに安定した時代であったといえる。
 14世紀はまた東中欧三国で、それぞれ建国以来の民族王朝が断絶し、外来の王朝が開かれた時代である。ハンガリーでは1301年にアールパード朝、ボヘミアでは1306年にプシェミスル朝、ポーランドでは1370年にピャスト朝がそれぞれ断絶し、ハンガリーではアンジュー朝、ボヘミアではルクセンブルク朝、ポーランドではヤギェウォ朝が支配することになったのである。このことは三国に、王朝とは異なる、国家ないし国民の観念が芽生えるきっかけを与えることとなった。それがはっきりとした形をとるのはしばらく後のことになるが、国王と対立する貴族らの動きの中には、そういった側面もあることを見逃してはならない。

ビザンツとスラヴ (世界の歴史)

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