1252年、フビライは陜西省から軍を率いて、東チベットの高原を南下し、いまの雲南省にあったタイ人の大理王国を征服した。タイ人たちはこれがきっかけで、雲南省から南下をはじめ、ラオスと北タイにひろがった。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.196-197
明朝に先立つ元朝では、長距離貿易の決済のために、軽い通貨が必要になり、世祖フビライ・セチェン・ハーンが1260年、「中統元宝交鈔」という紙幣を発行して、しばらく安定した。しかし1276年の南宋の平定後、中統鈔の発行額がふくれあがって銀準備が不足し、インフレーションになったので、1287年、新たに「至元通行宝鈔」を発行するとともに、金・銀との兌換を禁止した。これ以後、この世界初の不換紙幣は安定して流通したが、武宗ハイシャン・クルク・ハーンが立つと、一転して放漫政策をとり、巨額の紙幣を放出したので、ふたたび激しいインフレーションになり、その対策として1309年「至大銀鈔」を発行した。しかしこれも効果がなく、中統鈔・至元鈔のみの発行をつづけざるを得なかった。明朝の財政は、初期の洪武帝の「大明宝鈔」が、元朝のまねをして不換紙幣であったので、永楽帝の末期には信用を失って価値が極端に下落し、元朝のときのような好景気には二度とならなかった。
ところが隆慶帝の末年の1571年、メキシコから太平洋を渡ってきたスペイン人が、フィリピンにマニラ市を建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れ込みはじめたので、そのおかげで中国では、空前の消費ブームが巻きおこった。この明朝経済の高度成長が、大きな国際関係の変化の原因になるのである。
その結果、女直人たちが住んでいる森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、この1571年に13歳だったヌルハチたちも、富を蓄積して力をつけることができたのである。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
ところが隆慶帝の末年の1571年、メキシコから太平洋を渡ってきたスペイン人が、フィリピンにマニラ市を建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れ込みはじめたので、そのおかげで中国では、空前の消費ブームが巻きおこった。この明朝経済の高度成長が、大きな国際関係の変化の原因になるのである。
その結果、女直人たちが住んでいる森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、この1571年に13歳だったヌルハチたちも、富を蓄積して力をつけることができたのである。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 p.157
モンゴルでは、モンゴル語をウイグル文字で書く習慣がすでに確立していたので、せっかくつくったパクパ文字はあまり普及しなかった。しかし、パクパ文字は、元朝の支配下の高麗王国に伝わり、その知識が基礎となって、高麗朝にかわった朝鮮朝の世宗王がハングル文字をつくり、それを解説した『訓民正音』という書物を1446年に公布した。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
ラベル:
パスパ文字,
訓民正音(ハングル),
高麗,
朝鮮王朝(李氏朝鮮・李朝)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 p.151
そのうちに、宋代にいたって、道教中心の思想体系はそのままに、ただ用語を古い儒教の経典のものでおきかえた新儒教が出現した。周敦頤(1017~1073年)・張載(1020~1077年)・程顥(1032~1085年)・程頤(1033~1107年)らがその代表者で、福建の新開地の地主の朱熹(1130~1200年)の手によってこれが完成し、総合的な思想体系となった。これが新儒教で、また宋学、朱子学、道学、性理学ともいう。新儒教は、万物の根源を理・気の二気とし、気よりも理に優位をあたえる理学を唱えた。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.76-78
紀元前6世紀末から前5世紀はじめの哲学者・孔丘(孔子)の創立した儒教をはじめとする諸教団は、それぞれ独自の経典をもち、その読み方を教徒に伝授して、それを基準として漢字の用法、文体を定めていた。つまりテキストにはそれぞれ、それを奉じる人間の集団が付随しており、その読み方の知識、技術は師資相伝の閉鎖的なものであった。
前213年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
前213年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。
中国文明の歴史 (講談社現代新書)
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