岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.76-78

 紀元前6世紀末から前5世紀はじめの哲学者・孔丘(孔子)の創立した儒教をはじめとする諸教団は、それぞれ独自の経典をもち、その読み方を教徒に伝授して、それを基準として漢字の用法、文体を定めていた。つまりテキストにはそれぞれ、それを奉じる人間の集団が付随しており、その読み方の知識、技術は師資相伝の閉鎖的なものであった。
 前213年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

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