岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書 pp.196-197

 明朝に先立つ元朝では、長距離貿易の決済のために、軽い通貨が必要になり、世祖フビライ・セチェン・ハーンが1260年、「中統元宝交鈔」という紙幣を発行して、しばらく安定した。しかし1276年の南宋の平定後、中統鈔の発行額がふくれあがって銀準備が不足し、インフレーションになったので、1287年、新たに「至元通行宝鈔」を発行するとともに、金・銀との兌換を禁止した。これ以後、この世界初の不換紙幣は安定して流通したが、武宗ハイシャン・クルク・ハーンが立つと、一転して放漫政策をとり、巨額の紙幣を放出したので、ふたたび激しいインフレーションになり、その対策として1309年「至大銀鈔」を発行した。しかしこれも効果がなく、中統鈔・至元鈔のみの発行をつづけざるを得なかった。明朝の財政は、初期の洪武帝の「大明宝鈔」が、元朝のまねをして不換紙幣であったので、永楽帝の末期には信用を失って価値が極端に下落し、元朝のときのような好景気には二度とならなかった。
 ところが隆慶帝の末年の1571年、メキシコから太平洋を渡ってきたスペイン人が、フィリピンにマニラ市を建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れ込みはじめたので、そのおかげで中国では、空前の消費ブームが巻きおこった。この明朝経済の高度成長が、大きな国際関係の変化の原因になるのである。
 その結果、女直人たちが住んでいる森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、この1571年に13歳だったヌルハチたちも、富を蓄積して力をつけることができたのである。

中国文明の歴史 (講談社現代新書)

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