坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.156-157

 カージャール朝廃止の機会をねらうレザー・シャーは、1924年秋から共和制運動を起こした。これは、前年に建国が宣言されたトルコ共和国にならって、彼の主導でイランにも世俗的な近代国家をつくろうとするものであった。成功したあかつきには、尊敬してやまないアタテュルクにならって、レザー・シャーが大統領の座につくはずであった。
 しかし、この共和制運動は、彼の思惑をこえて別な方向に展開していった。シーア派ウラマーが共和制に反対する声をあげたからである。イランのウラマーは、トルコでカリフ制が廃止された結果、イスラームがないがしろにされ、ウラマーの力が削がれたことを知っていた。共和制樹立によって同じような状況がイランに生じることを、ウラマーは恐れていたのである。
 レザー・シャーは、このウラマーを先頭にした共和制反対運動を巧みに誘導し、ついには彼自身を大統領にではなく国王にすえる王制運動にすりかえていった。そして、1925年、共和制運動は換骨奪胎されパフラビー王朝が成立した。ウラマーの時代錯誤な判断の誤りがレザー・シャーに幸いしたのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.178

 1850年代末までにカザフスタンとカフカスとの完全な征服を完了したロシアにとって、キジルクム砂漠とカスピ海の彼方にひろがるトルキスタンは、南方のイギリス勢力圏を牽制する第一の戦略要地となった。ここで軍事的な勝利がえられれば、それはクリミア戦争(1854-56年)での敗北の屈辱をぬぐい、帝国の威信も回復するはずであった。
 そして、アメリカ南北戦争(1861-65年)のために原料綿花の輸入が激減すると、トルキスタンの綿花はロシアの木綿工業にとって決定的に重要な原料となった。それは1915年にはロシアが必要とした原料綿花の実に六八パーセントを占めることになるのである。
 1864年、ロシアはコーカンド・ハーン国に対する軍事遠征を敢行し、翌年には中央アジア最大の商業都市タシュケントを占領した。コーカンド・ハーン国のたびかさなる支援要請にもかかわらず、みずからも「東方問題」に呪縛されたオスマン帝国になすすべはなかった。ロシア軍の攻撃についてブハラ・ハーン国軍の侵略とキルギスの反乱とにさらされたコーカンド・ハーン国は、1876年ついに滅亡し、肥沃なフェルガナ地方はロシア領となった。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.163-164

 オスマン帝国がスレイマン大帝の治世下(在位1520-66年)にその最盛期をむかえているとき、イスラーム世界の北辺をなす中央アジアでは、重要な変化がおこりつつあった。1552年にモスクワ大公イワン4世(在位1553-84年)が、ヴォルガ中流域の商業と交通の要衝カザンを占領したのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.32

 しかし、一方では内憂外患もつづいた。バルカンにおいては、近代西欧のナショナリズムの影響下に政治的独立を求めはじめた、非ムスリム諸民族の動きも強まりつつあった。そして、これに対するヨーロッパ列強の介入も増やしつつあった。このような状況下で、1829年には、セルビアの自治が認められた。1821年以来のギリシア独立運動も、1830年のギリシア独立をもたらした。
 他方、エジプトでは、特権拡大をめざすエジプト総督メフメット・アリ・パシャ(ムハンマド・アリー)が、1813年には、セリム3世時代以来メッカを占領してきたワッハーブ派追討の命令を実行し、ギリシア独立戦争にあたっても出兵して、スルタンに対し実績をつみかさねた。そして1823年には、オスマン中央政府に対し公然と反旗をひるがえし、オスマン軍をコンヤの戦いで破った。さらに1839年にもネジプの戦いで、ふたたびオスマン政府軍を大破した。
 アラブ地域のさらに西方、アルジェリアは1830年、フランスにより占領された。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

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