高坂正堯『文明が衰亡するとき』新潮選書 p.29

 そして、ローマは戦術を変えた。カンネの戦いの後ローマ軍の司令官となったファビアスは、ハンニバルという名将に対して決戦を挑むことを避け、カルタゴ軍につきまとってその弱い部分をたたくという遊撃戦をおこなったのである。この戦法は成功し、ファビアスはゲリラ戦の最初の実行者として後世にも名を残した。
 たとえばそれはフェビアン協会の語源となった。フェビアン協会は、言うまでもなく社会主義の協会であり、英国労働党の起源の一つである。フェビアン協会の創始者たちは資本主義に対して正面からこれを打倒しようという決戦を挑むことは馬鹿げている、と考えた。その代り、ファビアスがしたように、少しずつ相手を傷つけ、最後に資本主義に対する勝利を収めようというのが彼らの考えであった。

文明が衰亡するとき (新潮選書)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.100-101

 18世紀初頭のサンクト・ペテルブルク建都以前には、ロシアは西欧との貿易を、アルハンゲリスク経由でおこなっていた。ロシアの「西欧との窓」とはアルハンゲリスクであり、バルト海ではなく白海を通して海上貿易がおこなわれていた。したがってサンクト・ペテルブルクで貿易する船舶が増大するということは、ロシアの西欧との貿易がアルハンゲリスクからサンクト・ペテルブルクに重点を移したこと、換言すれば、白海ではなく、バルト海がロシアの「西欧との窓」になったことを意味する。しかも、それがバルト海貿易で最大の勢力を誇っていたオランダではなく、イングランドによってなされたことに、大きな特徴がある。
 アルハンゲリスクが「西欧との窓」だった時代には、既述のように、同港で使用される船舶は、圧倒的にオランダからの船舶が多かった。しかし1724年には、アルハンゲリスクを利用する船は23隻に過ぎないのに対し、サンクト・ペテルブルクを利用する船は130隻になり、圧倒的にサンクト・ペテルブルクのほうが多くなる。しかも1721~1730年には、オランダからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は266隻、サンクト・ペテルブルクからオランダに向かう船舶は350隻であるのに対し、この10年間にイングランドからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は284隻、サンクト・ペテルブルクからイングランドに向かう船舶は494隻となる。サンクト・ペテルブルク-イングランド間のほうが、サンクト・ペテルブルク-オランダ間より船舶数が多い。
 18世機のバルト海貿易において、ロシアの貿易額は大きく伸びた。しかもロシアは、バルト海で最大のシェアを占めていたオランダではなく、サンクト・ペテルブルクを通じたイングランドとの取引により急速に貿易量を増大させていったのである。それは、バルト海貿易全体にきわめて大きな変革をもたらした。ロシアは、オランダではなく、イギリスを通じて近代世界システムに組み込まれたのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ p.73

 1568年の八十年戦争(オランダ独立戦争)開始時にはオランダにおける武器産業は経済全体のごくわずかな役割しか果たしていなかったが、終了時の1648年には、無視しえないほど巨大なものとなっていた。オランダ共和国は、直接的にも間接的にも、武器貿易を支援した。最大の武器消費者は、オランダ東インド会社(VOC)であった。オランダでは武器産業が発達し、武器貿易商人は、スウェーデン、デンマーク、イングランド、フランス、ヴェネツィアに、場合によっては敵国のスペインにも武器を売った。オランダの武器製造産業は、急速に発展した。そのため、スウェーデン-オランダ間の貿易が増えた。1630年代には、オランダにとってスウェーデン産の銅は、大砲の製造に欠かせないものとなり、鉄製銃器は、イングランドではなくスウェーデンから輸入されるようになった。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ p.59

 この当時のヨーロッパ諸国のなかには、このようなオランダの経済力低下を目指し、保護貿易政策をとった国もある。それを、重商主義政策と言い換えることもできる。近世ヨーロッパにおける重商主義とは、オランダの圧倒的な海運力に対し、いくつかの国が保護貿易をとったことを意味する。このような側面から、重商主義をとらえ直す必要があるだろう。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.47-48

 地中海諸国から北大西洋諸国へとヨーロッパ経済の中心が移動したといわれ、それが定説となっている。さらに前者は地中海経済を、後者は大西洋経済を開発したことによって可能となったとされてきた。しかし現実には、地中海から大西洋へとヨーロッパ経済の中心が直接移動したのではなく、地中海からバルト海をへて、大西洋へと移動したのである。地中海においてはイタリアが、大西洋においては――より正確には北大西洋貿易においては――イギリスが、バルト海においてはオランダが、貿易の中心になった。
 とくに穀物貿易に貸しては、16世紀後半から17世紀前半にかけては、アムステルダムが他を圧倒する商品集散地(entrepot)であった。バルト海地方から輸出される穀物は、ほとんどがまずアムステルダムに輸送されていたのである。
 1545年の時点では、アントウェルペンのほうがアムステルダムよりも(商品)輸出額が多かった。しかし、1550年代にアムステルダムがバルト海地方から穀物を大量に輸入するようになり、アムステルダムが急激に台頭した。
 アントウェルペンもバルト海貿易に参画していたが、アムステルダムほどには、この貿易から受けるインパクトは大きくなかった。アントウェルペンの貿易相手地域は、アムステルダムよりも少なかった。アントウェルペンの取引相手地域としては、ドイツの後背地、中欧、イングランド、イベリア半島などであった。そして低地地方の物産のみならず、イングランド産毛織物、ポルトガルからの香料などの商品が取引された。
 それとは対照的に、1580年代のアムステルダムの輸出入額は、表2に示されているように、バルト海地方の比率がきわめて高い。アムステルダムとアントウェルペンの貿易構造は大きく違っていた。アムステルダムの貿易構造は、たんにアントウェルペンの後継者にとどまらないほど異なっていた。アムステルダムの台頭とバルト海貿易のあいだには、切っても切れない関係があった。オランダのヘゲモニーないし「黄金時代」は、いわばこうした状況のもとで成立したのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

加藤隆『歴史の中の『新約聖書』 』ちくま新書 pp.35-37

紀元前8世紀後半に、メソポタミアでアッシリアの勢力が強大になり、北王国が滅ぼされてしまいます。
 この時に南王国は、外交的にうまく動いて、アッシリアの属国のような地位になったとはいえ、とにかくも独立を保ちます。南北に分かれていた王国の一方だけが滅んで、他方が存続したということが重要です。
 国が滅ぶということは、その国を守るべき神が動かなかったことを意味します。このような神は、頼りにならない神、ダメな神、として見捨てられるのが古代の常識です。
 南北の両方が滅ぼされていれば、ヤーヴェ崇拝は終わってしまって、歴史の闇の中に消えていったと思われます。しかしこの時に、南王国が残っていました。南王国は、北王国よりもヤーヴェ的伝統が強いところでした。南王国のダビデ王朝の王は、「神(ヤーヴェ)の子」とされていました。土地は、神が与えた土地でした。エルサレムにある神殿は、「神の家」「神の住むところ」とされていました。
 ユダヤ人たちの中には、ヤーヴェを見限った者も少なくなかったかもしれませんが、そのためにかえって、南王国には「ヤーヴェ主義」の傾向が強い者たちばかりが残ったということも考えねばならないかもしれません。
 いずれにしても南王国では、ヤーヴェ崇拝を簡単に捨てられませんでした。しかし、北王国という一つの国が滅んだということは、ごまかしようのない大きな事実です。「頼りにならない神」ということになったヤーヴェ、こんな神は崇拝できないというのが常識的な判断です。しかしヤーヴェ崇拝は捨てられない。
 ここで神学的に大きな展開が生じました。簡単に言うならば、ヤーヴェを「ダメな神」と考えないで済ませるために、「民」の側が「ダメ」なのだと考えることにしたのです。
 もう少し言うならば、「契約」の考え方を神と民の関係にあてはめて、「民」が「罪」の状態にあると考えることによって、神の「義」を確保する、ということが行われました。

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

関連記事s