とくに穀物貿易に貸しては、16世紀後半から17世紀前半にかけては、アムステルダムが他を圧倒する商品集散地(entrepot)であった。バルト海地方から輸出される穀物は、ほとんどがまずアムステルダムに輸送されていたのである。
1545年の時点では、アントウェルペンのほうがアムステルダムよりも(商品)輸出額が多かった。しかし、1550年代にアムステルダムがバルト海地方から穀物を大量に輸入するようになり、アムステルダムが急激に台頭した。
アントウェルペンもバルト海貿易に参画していたが、アムステルダムほどには、この貿易から受けるインパクトは大きくなかった。アントウェルペンの貿易相手地域は、アムステルダムよりも少なかった。アントウェルペンの取引相手地域としては、ドイツの後背地、中欧、イングランド、イベリア半島などであった。そして低地地方の物産のみならず、イングランド産毛織物、ポルトガルからの香料などの商品が取引された。
それとは対照的に、1580年代のアムステルダムの輸出入額は、表2に示されているように、バルト海地方の比率がきわめて高い。アムステルダムとアントウェルペンの貿易構造は大きく違っていた。アムステルダムの貿易構造は、たんにアントウェルペンの後継者にとどまらないほど異なっていた。アムステルダムの台頭とバルト海貿易のあいだには、切っても切れない関係があった。オランダのヘゲモニーないし「黄金時代」は、いわばこうした状況のもとで成立したのである。
近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)