玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.100-101

 18世紀初頭のサンクト・ペテルブルク建都以前には、ロシアは西欧との貿易を、アルハンゲリスク経由でおこなっていた。ロシアの「西欧との窓」とはアルハンゲリスクであり、バルト海ではなく白海を通して海上貿易がおこなわれていた。したがってサンクト・ペテルブルクで貿易する船舶が増大するということは、ロシアの西欧との貿易がアルハンゲリスクからサンクト・ペテルブルクに重点を移したこと、換言すれば、白海ではなく、バルト海がロシアの「西欧との窓」になったことを意味する。しかも、それがバルト海貿易で最大の勢力を誇っていたオランダではなく、イングランドによってなされたことに、大きな特徴がある。
 アルハンゲリスクが「西欧との窓」だった時代には、既述のように、同港で使用される船舶は、圧倒的にオランダからの船舶が多かった。しかし1724年には、アルハンゲリスクを利用する船は23隻に過ぎないのに対し、サンクト・ペテルブルクを利用する船は130隻になり、圧倒的にサンクト・ペテルブルクのほうが多くなる。しかも1721~1730年には、オランダからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は266隻、サンクト・ペテルブルクからオランダに向かう船舶は350隻であるのに対し、この10年間にイングランドからサンクト・ペテルブルクに向かう船舶は284隻、サンクト・ペテルブルクからイングランドに向かう船舶は494隻となる。サンクト・ペテルブルク-イングランド間のほうが、サンクト・ペテルブルク-オランダ間より船舶数が多い。
 18世機のバルト海貿易において、ロシアの貿易額は大きく伸びた。しかもロシアは、バルト海で最大のシェアを占めていたオランダではなく、サンクト・ペテルブルクを通じたイングランドとの取引により急速に貿易量を増大させていったのである。それは、バルト海貿易全体にきわめて大きな変革をもたらした。ロシアは、オランダではなく、イギリスを通じて近代世界システムに組み込まれたのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

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