1922年のラッパロ条約によるドイツとの外交関係締結も、当初は外交的孤立打破のための試みに他ならなかった。しかしドイツとの協力関係は、次第に軍事面に拡大されていった。ドイツはヴェルサイユ条約で武器や兵器の生産や使用について、厳しい制限を受けていた。他方でソ連は、赤軍が軍事技術のうえでの後進性に悩まされていた。そこでドイツはソ連に飛行場を建設し、ソ連に軍事技術を供与するかたわら、自軍の飛行訓練や演習を行ったのである。両国軍部の協力関係は、のちの独ソ提携の伏線となった。
この「ラッパロ」という言葉はその後、一人歩きをはじめ、独ソが接近する動きをみせるたびに、ヨーロッパの秩序が急変するのではないか、中欧を犠牲にして新秩序を構築するのではないか、という警戒の響きを伴って使われている。戦後の1970年代に当時のブラント西独首相が「東方外交」を唱えた折にも、「ラッパロ」の再現として警戒する論調がみられ、ドイツ統一後の1990年代においても、ロシアとドイツが援助を軸に関係を深める傾向に対して、中欧の国々から「ラッパロ」再来を懸念する声が聞かれている。
ヨーロッパ分断1943―大国の思惑、小国の構想 (中公新書)