薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』光文社新書 p.184

 フランスの場合、同時代のドイツとは異なり、社会主義者や労働組合の統合が実現しなかった。むしろ、19世紀終盤のフランスでは、統一的な社会主義団体の成立どころか、いくつもの左派勢力が林立していたのである。とはいえ、1880年前後から同国の社会主義運動や労働運動が活性化したことは事実であり、その重要性を過小評価してはならない。そんな折、1883年に盟友マルクスを失ったエンゲルスは、第一インターナショナルを後継する組織の設立を模索していた。こうした中で、1889年7月、フランス革命百周年に合わせた社会主義者の国際大会が、首都パリで挙行されることになったのである。

社会主義の誤解を解く (光文社新書)

薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』光文社新書 pp.137-138

 マルクスが他界した1883年、ロンドンにおいて「新生活同志会(The Fellowship of the New Life)」なる社会主義団体が生まれた。しかしながら、この団体の趣意は、近代的な社会主義と言うより、むしろユートピア型の共産主義に近かった。なので、いわゆる現実主義者たちは、早くも翌年1月、新生活同志会から枝分かれする形で、新しい組織を結成することになる。この新組織は、古代ローマの名将ファビウス(Quintus Fabius Maximus)にあやかり、フェビアン協会(Fabian Society)と名づけられた。
 ちなみに、名将ファビウスとは、第二次ポエニ戦争(紀元前3世紀末頃)の際、カルタゴ軍との本格決戦を延ばし延ばしにし、粘り強い持久戦に持ち込んで勝利した人物である。フェビアン協会の方針もまた、ファビウスの戦法にあやかり、マルクス流の急変改革を延ばし延ばしにしながら、粘り強い持久戦の中で社会を改革するということであった。その態度は、浸透主義や漸進主義、あるいは――革命主義との対比として――改良主義と称されるものである。

社会主義の誤解を解く (光文社新書)

薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』光文社新書 p.123

 ともあれ、早くも1860年に議会権限の強化を実施したナポレオン3世は、1862年のロンドン万国博覧会に際して、アンリ・トラン(Henri Tolain)ら約八〇名の労働者代表を国費で派遣した。その折に英仏両国の熟練労働者が出会ったことが、1864年に――同じロンドンにおいて――第一インターナショナル(国際労働者協会)が結成される契機となったのである。先述のとおり、その創立宣言と暫定規約とを起草したのは、マルクスであった。しかし、だからと言って、英仏両国にマルクス主義が広まったわけではない。青銅彫職人のトランにしてもイギリスの労働組合員たちにしても、たしかに労働者であったにちがいないが、ともに上層熟練労働者に属していたのである。

社会主義の誤解を解く (光文社新書)

木畑洋一『二〇世紀の世界』岩波新書 p.124

 満州事変の成功に助長される形で起こったのが、イタリアによるエチオピア侵略である。すでに触れたように、1896年にイタリアはエチオピア征服をねらった末、アドワの戦いで敗れたという歴史的経験を持っていたが、1922年に「ローマ進軍」の結果政権を握ったファシスト党のムッソリーニは、エチオピアへの侵略欲を改めて燃え立たせ、35年10月、本格的侵略を開始した。その際、満州事変での日本の先例をムッソリーニは明確に意識していた。「アビシニア(エチオピアのこと)の全面征服」準備への決意を彼が参謀総長に告げた覚書のなかで、ムッソリーニは「われわれの行動がスピーディであればあるほど、外交面でもつれが生じる危険性は少なくなる。日本がやったと同じように、公式の宣戦布告をする必要は全くないし、いかなる場合にも常に作戦が純粋に防御的な性格のものであると強調する必要がある」と述べていたのである。

二〇世紀の歴史 (岩波新書)

川北稔『イギリス 繁栄のあとさき』講談社学術文庫 pp.34-35

 そのつもりで、18世紀のアムステルダム金融市場のデータを見ると、この地で資金を借りた政府は圧倒的にイギリスであり、ほかには、スペインやプロイセンなどが少し顔を出す程度である。フランスが途切れとぎれに現れるのは、ようやく1770年前後のことである。この頃には、ドイツの中・小領邦をはじめ、ロシア、ポーランドなど、ヨーロッパ中の弱小国が、ここで資金調達にあたるようになっており、自己資金で運用できるようになったイギリスは、かえって後退している。
 17世紀のヘゲモニー国家オランダは、18世紀には、なお残る金融面での優位を利用した金利生活者(ランチエ)国家となった。イギリスとフランスは、この世紀に覇権を争ったものの、結局、「オランダ資金」を引きつけたイギリスが、ほとんどすべての戦争を制する結果となった。19世紀の「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」、つまり「イギリスのヘゲモニー」は、こうして生まれたのである。

イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)

杉山正明『大モンゴルの世界』角川選書 p.162

 しかし、おそらくそれにもまして重要であったとおもわれる第二の理由は、雲南方面に産出する金銀であった。雲南・大理は古来、産金の地として有名なところである。そして、13世紀ころになると、銀の産出でも知られるようになっていた。
 地大博物といわれる中国ではあるが、中国本土(チャイナ・プロパー)に限っていえば、意外に鉱物資源にはとぼしい。ところが、雲南については、金銀ともに豊かで、たとえば、元代の1328年の統計でいえば、金は大元ウルス治下の全土の三八パーセント、銀は六六パーセントを占める。しかも、この統計は首都の大都や百万都市であった杭州などに関しては、商業・貿易利潤もふくんでいるようなので、純粋の産金・産銀高でいえば、金銀ともに七〇パーセントをこえるかもしれない。
 モンゴル時代に開発がすすんだ結果、明代になると、金銀ともに、その割合はさらに高まる。元代以後、歴代の中国政権が雲南地方を手放さなかったひとつのおもな理由は、おそらくこの点にある。

大モンゴルの世界―陸と海の巨大帝国 (角川選書)

佐藤健太郎『炭素文明論』新潮選書 p.161

 イスラム教では、さらに厳しく飲酒は禁止されている。コーランでも「飲酒はサタンの業」とし、違反者には鞭打ちなどの厳しい刑罰が科された。飲酒が禁じられるようになったきっかけは、ムハンマドの二人の弟子が酒宴の席で流血の騒ぎを起こしたためと伝えられる。酔っ払いの喧嘩は古今数限りないが、そのうち後世に最も大きな影響を与えたのは、この二人の喧嘩であったことだろう。
 というのは、これが世界の宗教分布に大きく影響したという説があるからだ。イスラム勢力はたびたび北方へ攻め入り、現在のロシア圏などにも勢力を広げたが、支配者として定着するには至らなかった。これは、あまりに寒い地方では、酒を飲んで体を暖めないととても冬は過ごせないためである、というのだ。赤道付近の暑い地域を主体に広がっている現在のイスラム圏を見ると、このお話も全くの嘘ではないか、とも思える。いずれにしろ、イエスやムハンマドの酒に対する個人的なスタンスが、今の世界の形を大きく変えてしまっているのは事実だろう。

炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす (新潮選書)

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