岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.44-45

 人参や貂皮の国際市場の中心は遼東地方であったが、当時、この地方を含む現在の中国東北一帯におもに住んでいたのは、女真と呼ばれる民族であった。すなわち、12世紀初めに金を建国し、中国北方を支配した人びとである。13世紀にモンゴルに滅ぼされて以来、東北の女真族も元の支配下にはいっていたが、14世紀に明朝が元朝を逐って東北を平定すると、女真の首長たちはつぎつぎに明に来朝した。明は彼らに武官の地位を与えるとともに、それぞれの首長に朝貢貿易をおこなう許可証を与えた。明との交易は彼らに大きな利益をもたらし、貿易の利権をめぐる激しい争奪戦のなかで、16世紀には貿易を独占する有力者がのしあがってくる。
 その一人が、のちに女真族を統一するヌルハチである。16世紀の中国東南沿岸が、中国人・日本人・ポルトガル人などのいりまじる荒々しい市場であったのと同様、同時期の遼東も、女真人・漢人・モンゴル人・朝鮮人などが混在する商業=軍事勢力の闘争場であった。1570年以来三〇年近くのあいだ、遼東で勢力をふるったのは、明の軍閥李成梁であったが、彼の庇護のもと、ヌルハチは急速に頭角をあらわし、女真諸部族の統一を進めて、人参や貂皮の交易を独占した。当時の女真経済は、農業とともに狩猟採集に依存していたといわれるが、狩猟採集といっても獣を狩ってその肉を食べたり木の実をとって食べたりする素朴な自給自足経済ではなく、国際交易と深く結びついた貂や人参など特産品の狩猟採集であったことに注目する必要があろう。諸民族のいりまじる市場に若いころから出入していたヌルハチは、有能な武将であると同時にまた「商業資本家」でもあったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.39-40

 16世紀半ばの倭寇の被害、および明政府からみればもっとも侵略的な倭寇ともみえた同世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略など、度重なる事件によって日本にたいする強い不信感をもっていた明政府は、日本と中国とのあいだの直接的な貿易を禁止する政策を取り続けた。中国の生糸と日本の銀という、当時の東アジアでもっとも利益のあがる貿易は、同時にもっとも政治的な障害の大きな貿易でもあったわけである。もっとも官憲の禁止をかいくぐって日本に来航する中国船は跡を絶たなかった。
 そのなかで、日中双方に貿易拠点を確保したポルトガルがまず、16世紀後半に中国貿易を掌握したことはさきにみた。しかし、16世紀の末には、ポルトガルの優位はしだいにゆらいでくる。新興勢力オランダや日本の朱印船といいたライバルの進出に加えて、ポルトガルの貿易と結びついた宣教師の布教活動にたいする日本政府の弾圧が始まったからである。ポルトガル勢力の動揺にともなって脚光を浴びるようになったのが台湾である。もともと台湾には現在「高山族」などと呼ばれている先住民が住んでいたが、中国本土とはあまり関係がなく、漁船がたちよる程度であった。しかし、中国本土に拠点をもたないオランダや日本、スペインなどにとって、台湾は中国帆船との出会い貿易の絶好の拠点とみなされた。オランダは、スペインや日本と競合しつつ台湾に進出し、1624年、台湾南部の安平にゼーランディア城を築いた。
 当時中国の東南沿岸では多数の武装海商集団が活動していたが、生糸をはじめとする中国物産を供給してくれるパートナーとしてオランダが選んだのは、鄭芝龍という人物であった。鄭芝龍は日本の平戸に住んでいたときに日本人女性田川マツとのあいだに子どもを設けたが、これが清朝の中国占領後に最大の反清勢力を率いることとなる国姓爺こと鄭成功である。鄭芝龍は1630年代半ばに中国東南沿岸の海上支配をかため、鄭芝龍とオランダの連携のもとでポルトガル抜きの日中貿易が順調に動きはじめた。徳川幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁止し、オランダ船と中国船のみの来航を許した背景には、こうした日中貿易の覇権の交替があったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット p.12

 1550年代は、そうした倭寇の活動が最高潮に達した時期であった。同時に北方でもモンゴルの活動が活発化し、50年にはアルタン率いるモンゴル軍が長城をこえて深く侵入し、八日間にわたり北京城を包囲した。「北虜南倭」と連称されるモンゴルと倭寇の危機がこの時期同時に高まったのは偶然ではない。北方の軍事的な緊張が高まるほど軍事費は増大して中国の銀需要は強くなり銀需要が強くなるほど日本銀流入の圧力は高まる。このように「北虜」と「南倭」とは、遠く離れた中国の北と南で、銀を媒介に深い関係をもっていたのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

川口マーン惠美『ベルリン物語』平凡社新書 pp.45-46

 イギリスの産業革命から半世紀以上も出遅れ、ようやく1830年代の終わりに始まったドイツの工業化が、なぜこれほど急速に進んだかというと、いくつかの理由が挙げられる。つまり、遅れていたからこそ、新しく建設する工場に最先端の技術を導入することができ、生産効率が高かったこと、また、遅れを取り戻そうとした政府が、積極的に資金を投資したことなどである。ドイツ産業の強みは、石炭、製鉄、機械にあった。そして、鉄道の大々的な敷設が、それらの産業の発達を強力にバックアップしていた。
 ドイツに初めて鉄道が通ったのは1835年のことで、ニュールンベルクからフュルトまでのわずか6キロだった。同じ頃、イギリスでは544キロの鉄道網が整備されていた。しかし、このあとのドイツの巻き返しは早い。三年後には、ベルリン-ポツダム間、その翌年にはライプツィヒ-ドレスデン間が開通し、鉄道開通のわずか五年後の1840年には、469キロになっていた。これによって石炭など資源の輸送が合理化され、また、農産物や工業製品の輸送も安価で迅速になり、流通は格段の進歩を見せた。
 ただ、急速な工業化と連動して、様々な社会問題が発生した。都市部に労働者が集中したため、住宅不足が起こり、労働者の生活環境は甚だしく悪化した。また、病気になったり、年老いて働けなくなれば、労働者の生活はその日から困窮した。長時間労働や危険労働、低賃金、一方的な解雇、あるいは児童就労といった状況を前に、労働者は自己を守る術を一切持たなかった。資本家は、ますます力を蓄え、有利な立場から労働者を搾取したため、ドイツ帝国が豊かになっていくのに反比例するように、労働者階級の貧困化が進んだ。このような状況から、必然的に労働運動が萌芽した。
 労働者の間に少しずつ権利意識が芽生え、労働運動が起こり始めたのは、1860年代だ。労働運動の牙城はベルリンである。1875年には、社会民主党(SPD)の前身である社会主義労働者党が結成された。そして、1878年10月に社会主義運動を弾圧する法律が制定された。

ベルリン物語 都市の記憶をたどる (平凡社新書)

杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』集英社新書 pp.158-159

 ここで、ルイジアナの歴史を少し振り返ってみよう。
17世紀後半、この地を最初に探検したフランス人一行が、当時のフランス王ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と命名し、それ以後、フランスが領有することになった。そして、「フレンチ・アンド・インディアン戦争」でフランスがイギリスに敗北すると、その領有権はスペインに移った。
 しかしルイジアナの統治は、スペインの財政を圧迫し、さらにこの地に移住してくるアメリカ人との衝突の可能性も高くなったために、スペインは1800年、秘密裏にフランスにルイジアナを返却していたのである。
 その一方でこの時期、アメリカの大統領トーマス・ジェファーソンは、メキシコ湾とミシシッピー川の接点に位置する交通の要衝だったニューオリンズという小都市を、アメリカに譲ってほしいとフランスに申し込んだ。
 これに対してフランスからは、ニューオリンズだけでなく、広大なルイジアナの土地すべてを購入してほしいという意外な回答が返ってきたのだ。
 当時のフランスは、カリブ海のハイチにおける黒人奴隷反乱の鎮圧に失敗し、さらにヨーロッパにあっては、イギリス、ロシア、プロイセンなどとの間で、ヨーロッパの支配をめぐって「ナポレオン戦争」(1799~1815年)を繰り広げていた。そのため、喫緊に軍事費が必要で、安値でもルイジアナを処分できればありがたいと考えていたのである。

知っておきたいアメリカ意外史 (集英社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.73-74

 1701年、ウィリアム3世は王位継承法により、イングランド王位にカトリック教徒は即けず、また王族もカトリック教徒との結婚を禁ずると制定した(この法律は21世紀の現在でも有効である)。この翌年、ウィリアムは落馬事故が原因で急死し、義理の妹アン女王(在位1702~14年)が即位した。
 アンの後継者としてハノーファー選帝侯を推す方針には根強い反対も見られた。特に、イングランドと同君連合で結ばれるスコットランドでは、ブリテン島に一度として足を踏み入れたことのないドイツのお殿様より、ジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを改宗させたほうがまし、との意見も出されていた。
 ここでせっかく百年も続いてきた同君連合をお終いにするのは危険である。そう感じたイングランドの政治家たちは、スコットランドに働きかけて、国同士の正式な「合同」にしたいと持ちかけた。イングランドへの従属に批判的な声も見られたが、スコットランドの大勢は合同に傾いていた。ここに1707年5月1日をもって、グレート・ブリテン連合王国が成立した。いわゆる「イギリス」の誕生である。
 その7年後の8月1日、アン女王は世継ぎを残さずに亡くなった。訃報はハノーファーにも届けられ、選帝侯ゲオルグがイギリス国王ジョージ1世(在位1714~27年。ジョージはゲオルグの英語読み)に即位することとなった。ハノーヴァー王朝(1714~1901年、ハノーヴァーはハノーファーの英語読み)の成立である。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.69-70

 王政復古とともにイングランド国教会も正式に復活し、チャールズが国王を兼ねるスコットランドは長老派プロテスタントが相変わらず主流を占めていた。そこにカトリックの国王が戻ってくるとは……。もちろん、チャールズはそのことは伏せていた。そんなことがばれたら、また大陸に追い返されてしまう。彼がカトリックであることを公言するのは、まさに死の床での「告解(罪の告白)」においてであった。
 ところが、チャールズより三歳年下の弟ジェームズ(ヨーク公爵)は、カトリック教徒であることを公然と認めていた。彼は、海軍長官として、北アメリカ植民地でのオランダとの戦争にも功績を残し、ニューネーデルラントと呼ばれていた領土は「ニューヨーク植民地」と彼の爵位名から名称を改められ、そのまま彼に下賜された領土でもあった。しかしカトリックであることが判明し、公職を解かれてしまった。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

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