山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.83-84

 ウルバヌスは巧みだった。彼は演説で、「反キリストの時が近い」と明言した。これは、人々の心に深く響いた。なぜなら“終末”が訪れるはずの、キリストの死後千年である1033年がすでに過ぎていたからである。この年から、世界の終末が近いという思いがキリスト教徒たちを強く捉えていた。人類がエルサレムで世界の終末を迎えるとするなら、その地で最後の日を迎えたい、そして新しいエルサレムの民となりたい。人々はそう考えた。人々は群れをなして、エルサレムへの巡礼に向かった。この終末論は、「神の平和」思想と内面的に結びついていた。
 終末の日がいつか、占星術や聖書解釈学が必死に計算を続けていた。だがエルサレムへの巡礼は、実は救済にあずかる喜びよりも、むしろ恐怖をバネとしていた。罪あるままに世界の終末を迎えるならば、「火と硫黄の燃える池」で「第二の死」(「ヨハネの黙示録」第21章)を迎えるに違いない。それを避けるには贖罪が必要と考えられた。贖罪への強い思いが、人々をエルサレムへと向けた。エルサレムへの巡礼は、贖罪の重要な一形態だった。
 ウルバヌス2世の十字軍は、この巡礼という贖罪の旅に、さらに大きなものを付加した。参加を誓約することによって与えられる贖罪である。
 これは新しい贖罪の形式だった。

十字軍の思想 (ちくま新書)

山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.72-73

 ローマ教皇は、キリスト教世界の指導権を自己のもとに置こうとした。世界がキリスト教世界であるならば、その支配権は教皇のもとにある。教皇はそう主張した。その論理に従えば、国王や皇帝はそのローマ教会と教皇の守護役人でしかない。聖と俗の分離とは、ローマ教皇にとって、聖が俗を主導することを意味した。したがって、教皇は聖の論理のもとに俗の暴力を利用し、そのことによって自己の指導性、支配力を高めようとした。教皇が求めるかぎりにおいて、その暴力は聖戦だった。
 聖戦には、それだけの理由が必要である。キリスト教世界の指導者・支配者であることを自認し始めたローマ教皇にとって、何が最適の対象だろうか。それは、イスラム世界だった。強力な異教徒からキリスト教世界を守ること。異教徒の支配からキリスト教徒を解放すること――ローマ教皇が全キリスト教徒に呼びかけるのに、これほど明快な理由があるだろうか。
 事実、イスラム教徒と戦い、エルサレムを解放しようと最初に考えたのは、ウルバヌス2世ではなく、グレゴリウス7世だった。グレゴリウス7世は、「キリスト教世界の頂点」に立つことを望んだ。彼は先鋭な教会改革者として、ローマ教皇こそカトリック教会の創始者、十二使徒のかしらである聖ペテロの首位権にもとづく、全カトリック教会の最高権威であることを強調した。

十字軍の思想 (ちくま新書)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.169-170

 日露戦争が終わったあとの列強の対立の舞台はバルカンに移ってきた。1908年7月におこった青年トルコ革命の波及を恐れたオーストリア=ハンガリーは、同年10月、ついにボスニア=ヘルツェゴヴィナ二州を併合した。そのさいブルガリアを誘ってその完全独立を宣言させていた。そうしてセルビアを包囲する形をとったのだが、それはむしろセルビアの側に、狂信的ともいえる排外主義的ナショナリズムを盛り上げ、多くの秘密結社を生みだした。このときボスポラス・ダーダネルス海峡への進出承認と引き換えに二州併合を容認した形のロシアは、その願いを果たせず、不満を強め、セルビアとの結びつきを強めた。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.159-160

 1848年革命の挫折後、東欧の民族エリートは、その要求の実現を、列強の権力政治に便乗することによって果たそうとするようになった。
 バルカンで代表的なのは、クリミア戦争を利用してオスマン帝国からの独立を達成しようとしたルーマニアの例である。ルーマニア正教会の保護を口実にロシアがオスマン帝国と戦ったのがきっかけで始まった1853-56年のクリミア戦争ののち、ワラキア地方とモルドヴァ地方はフランスのナポレオン3世の支援を受けて自治公国となった。1861年に両公国が同一の君主を選んで合体したあとも、この「ドナウ二公国」は列強の影響を受け続けた。
 それでも、多くのバルカン諸民族においては、列強への期待よりもなお蜂起という道が考えられざるをえなかった。1865-67年には、セルビア公国が中心になって、ルーマニア、モンテネグロ、ギリシア、ブルガリアのあいだに、バルカン同盟が結ばれ、オスマン支配に対する一斉蜂起の計画がたてられるのだった。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.79-80

 ゲルマン民族の移動によって生じた空白は、東から移動してきた西スラヴによって埋められた。スラヴの西進の限界はだいたいエルベ川までと考えられ、ちなみにロストク、ドレスデン、ライプツィヒなどのドイツの地名は明らかにスラヴ語起源である。ところが10世紀になるとゲルマン民族が再びエルベ川の東に進出を始めた。それはドイツ人の東方植民の名で知られる大規模な移動の一環で、エルベ川の東に住んでいたスラヴ人諸部族はゲルマン化の波にのまれていった。
 そのなかで、現在のポーランドの西部、大ポーランド地方にいた西スラヴのポラーニ族がゲルマン化に抗して統一をはかった。それがポーランドの成立である。最初の王朝ピャスト朝のミシェコ1世は、国家形成のために同じスラヴのボヘミアの力を借り、966年にはボヘミアの聖職者の手により西方キリスト教の洗礼を受けた。このようなキリスト教の公的受容は、神聖ローマ帝国側からの異教徒討伐の口実を封じ、自領の支配の正当性を主張するためであった。しかもミシェコは最初からローマ教会に頼り、自国をローマ教皇の保護下に組み入れるといった手段をとり、神聖ローマ帝国にポーランドの存立を認めさせた。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.77-78

 キエフはドニエプル川に臨む丘の上にあり、地形的には森林地帯がステップに変わる境目にあたる。そのことはこの町がステップの遊牧民に対抗する橋頭堡の役割を負わされていたことを意味する。事実、ロシア国家にとって遊牧民との闘いは宿命ともいうべきもので、モンゴル軍の侵入で農耕民の敗北は決定的となったが、その後、近代の歴史は農耕民が遊牧民を押し戻していく過程であり、そこにロシア帝国の発展を重ね合わせることができるであろう。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

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