森安達也・南塚信吾『東ヨーロッパ』地域からの世界史(朝日新聞社) pp.79-80

 ゲルマン民族の移動によって生じた空白は、東から移動してきた西スラヴによって埋められた。スラヴの西進の限界はだいたいエルベ川までと考えられ、ちなみにロストク、ドレスデン、ライプツィヒなどのドイツの地名は明らかにスラヴ語起源である。ところが10世紀になるとゲルマン民族が再びエルベ川の東に進出を始めた。それはドイツ人の東方植民の名で知られる大規模な移動の一環で、エルベ川の東に住んでいたスラヴ人諸部族はゲルマン化の波にのまれていった。
 そのなかで、現在のポーランドの西部、大ポーランド地方にいた西スラヴのポラーニ族がゲルマン化に抗して統一をはかった。それがポーランドの成立である。最初の王朝ピャスト朝のミシェコ1世は、国家形成のために同じスラヴのボヘミアの力を借り、966年にはボヘミアの聖職者の手により西方キリスト教の洗礼を受けた。このようなキリスト教の公的受容は、神聖ローマ帝国側からの異教徒討伐の口実を封じ、自領の支配の正当性を主張するためであった。しかもミシェコは最初からローマ教会に頼り、自国をローマ教皇の保護下に組み入れるといった手段をとり、神聖ローマ帝国にポーランドの存立を認めさせた。

東ヨーロッパ (地域からの世界史)

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