岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 p.109

 11世紀になると、インドから多数の仏教学者たちがチベットへ逃げこんできた。これはこのころアフガニスタンのトルコ系イスラム教徒が北インドに侵入を開始し、仏教に強烈な迫害をくわえたからである。インドの高僧たちは、仏教の神学・哲学だけでなく、医学、天文学などあらゆる科学技術をもちこんできた。チベットが完全に仏教化したのはこのときからである。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 pp.21-22

 地図をみよう。まず気がつくことは、ふるくひらけた国家の中心は、かならずモンゴル高原から北シナの平野におりてくる通路の終点にあることである。東のほうからかぞえると、北京は春秋戦国時代の強国燕の首都であった。これはちょうど内モンゴルから張家口、居庸関をとおって北シナの平野に一歩ふみいれた位置にある。黄河の北には紀元前14世紀に建設されたシナ最古の都市の遺跡である殷墟のある安陽と、戦国時代の大国趙の都であった邯鄲とがくっつきあってならんでいる。
 このふたつの都市は、いずれも山西省の高原の太原方面から渓谷ぞいに太行山脈の切れ目をとおりぬけて北シナの平野にでてきた位置にある。太原は北のかた雁門関をとおって大同の盆地につらなり、大同が内モンゴルに接していることはいうまでもないだろう。黄河の南には洛陽の盆地がある。ここは周代の東都であったが、太原から太行山脈の西側をとおって南下するルートの終点である。さらに西方には、西周の都西安と秦の都咸陽が渭水の渓谷にならんでいる。ここは内モンゴルのオルドス地方、寧夏の銀川方面から固原をへてはいってくる交通路の先端にあたる。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 pp.107-108

 地理からみれば、チベットは一本のトンネルに似ている。一方の出口は崑崙山脈の西端と、カシミールのカラコルム山脈のあいだで、東トルキスタンのタリム盆地の西南辺のホタンあたりにひらいている。もう一方の出口は、黄河の水源地から青海の西寧あたりにひらいている。そしてトンネルの内部では、チベットの南境をかぎるヒマラヤ山脈にそって、ツァンポ川が延々と東に流れ、その渓谷は気候が温和で農耕に適している。この農耕地帯の北側に平行して、湖の多い草原地帯がずっと東西にのびているが、雪が多いので農耕には適せず、むかしから遊牧民の住地になっている。この遊牧地帯の両端が、さっきいったホタンと西寧なのである。遊牧地帯のさらに北、崑崙山脈よりの広大なチャンタン高原はきわめて乾燥していて水がないので、人間はおろか野獣も住めぬところである。これがトンネルの北壁をなしているわけである。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社学術文庫 p.116

 このウィクリフの思想をボヘミヤで実現しようとしたのがヤン・フスである。ウィクリフはオックスフォードで教鞭をとったが、ボヘミヤとイギリスの王室が姻戚関係にあり、その結果オックスフォード大学とプラハ大学の間に交流があって、ウィクリフの思想がプラハに伝わったのである。フスはプラハ大学の学長であった。

キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社学術文庫 pp.83-84

マホメット(Mahomet 570頃-632)後一世紀にして、東はインド北部、西はアフリカ北岸を経てイベリア半島までがイスラムの世界になった。ということは、地中海世界の統一性が破れ、地中海商業もなりたたなくなったということである。その結果、ヨーロッパは自然経済へ依存する他はなくなり、それがヨーロッパ世界を封建社会へ向かわせる一因となった。

キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)

山内進『十字軍の思想』ちくま新書 pp.140-141

 ルターとトルコの脅威と十字軍への反対との間に、どのような関係があるのか。いぶかしく思う人も多いだろう。しかし、それはかなり密接に関係している。
 ヨーロッパはなぜこのような状況に陥ったのか。トルコになぜ負けつづけるのか。トルコはなぜヨーロッパに迫ってくるのか。15世紀後半から16世紀前半にかけて、この事態に深い疑問を抱く人々が現れていた。誰が悪いのか。なるほどトルコ人は異教徒で、彼らは敵かもしれない。だが、彼らの進出もまた神のなせる業ではないのか。だとすると、それはどう解釈されるのか。キリスト教徒は何をなすべきなのか。鋭敏な人々はそう考えはじめていた。
 フィレンツェの宗教改革者サヴォナローラ(1452-89年)もその一人だった。彼は十字軍に賛成せず、むしろ教会の腐敗を攻撃した。将来トルコ人はキリスト教に改宗する可能性があり、それは「誤ったキリスト教徒の処罰」と軌を一にするだろう。彼はそう主張した。そもそもトルコの勝利は、内戦と堕落した教会に対する神の怒りである。神の怒りの表現である異教徒は反キリストの使者、あるいは神の懲罰の道具にすぎない。そのような異教徒と戦うことははたして必要なのか。有益なのか。それは、本当に合法なのか。彼はそう問いかけた。
 この改宗の可能性については、神学者であり哲学者であるニコラウス・クザーヌスもまた重視していた。彼はコーランの研究を進め、キリスト教とイスラム教の類似点を考察した。彼の『コーランの検証』は、イスラム教徒をキリスト教徒に改宗させることを目的としたもので、彼の友人でローマ教皇ピウス2世に献呈された。
 クザーヌスと同じ線上でトルコに対しようとしたのが、偉大な人文主義者エラスムス(1466-1536年)だった。エラスムスもまた、コーランのうちにキリスト教的要素のあることを認め、イスラムの理論の「半分」はキリスト教だと主張していた。彼にとってトルコ人は、キリスト教のアーリア的異端だった。したがってエラスムスの場合、トルコ人と戦うのではなく、むしろ彼らに改宗を勧める方が適当と考えられた。

十字軍の思想 (ちくま新書)

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