岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光』講談社学術文庫 pp.21-22

 地図をみよう。まず気がつくことは、ふるくひらけた国家の中心は、かならずモンゴル高原から北シナの平野におりてくる通路の終点にあることである。東のほうからかぞえると、北京は春秋戦国時代の強国燕の首都であった。これはちょうど内モンゴルから張家口、居庸関をとおって北シナの平野に一歩ふみいれた位置にある。黄河の北には紀元前14世紀に建設されたシナ最古の都市の遺跡である殷墟のある安陽と、戦国時代の大国趙の都であった邯鄲とがくっつきあってならんでいる。
 このふたつの都市は、いずれも山西省の高原の太原方面から渓谷ぞいに太行山脈の切れ目をとおりぬけて北シナの平野にでてきた位置にある。太原は北のかた雁門関をとおって大同の盆地につらなり、大同が内モンゴルに接していることはいうまでもないだろう。黄河の南には洛陽の盆地がある。ここは周代の東都であったが、太原から太行山脈の西側をとおって南下するルートの終点である。さらに西方には、西周の都西安と秦の都咸陽が渭水の渓谷にならんでいる。ここは内モンゴルのオルドス地方、寧夏の銀川方面から固原をへてはいってくる交通路の先端にあたる。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

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