鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書 pp.223-224

 『スジャラ・ムラユ』は、マラッカ王国の王たちの歴史を描いたものであるが、マレー人の世界観で書かれた彼らの歴史である。マラッカ建国の歴史は、その祖たるマケドニアのアレクサンドロス大王のインド遠征から書きおこされる。いわゆる「アレキサンダー・ロマンス」は中世ヨーロッパにおいて流布された空想的な伝説であるが、その伝説はヨーロッパのみならずイスラーム世界にまでおよび、世界的規模でさまざまな伝説がつくられていった。イスラーム世界では、彼はあるときはイスラームの戦士として、あるときは国の始祖として描かれる。
 マラッカ王国も、アレクサンドロス大王からその歴史を書きおこすのである。その子孫のさまざまな冒険、ガラスの箱に入って海底の王国を訪れ、そこで王女と結婚するという龍宮城をほうふつさせる物語、さまざまな奇跡、海底の国からふたたび地上に戻った子孫たちによるパレンバン王家の物語から、ついにマラッカの建国に至るさまざまな物語、そしてマラッカ王国が最終的に1511年にポルトガルによって崩壊するまでの物語が語られる。

パクス・イスラミカの世紀 (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)
 

鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書 p.222

 スマトラ島におけるイスラームの伝播は、当然対岸のマレー半島にも影響をおよぼした。この半島の西海岸にマラッカ王国が建設されるのは、14世紀末のことで、ちょうど中国では、明の永楽帝が積極的な対外政策をとっていた時代であった。マラッカ王国の建設者パラメスワラはこの明の対外政策を背景に、その保護のもとに建国をなしとげるのである。
 パラメスワラは永楽3年(1405年)、永楽帝によって派遣された使節内官尹慶らにしたがって、はじめて使節を明に派遣する。永楽7年(1409年)永楽帝は正使太監鄭和に命じてマラッカに詔勅をもたらし、パラメスワラに銀印、冠帯、袍服をあたえ、彼を国王に任じた。このように、マラッカは明の政治的な庇護のもとに建国をする。パラメスワラ自身、1411年には鄭和の艦隊とともに明を訪れている。

パクス・イスラミカの世紀 (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 pp.35-36

 大統領としてのジェファーソンが残した最大の功績は、アメリカの領土を一気に倍増させた「ルイジアナの購入」です。ミシシッピ川西岸からロッキー山脈に至る広大な領域(現在の十五州にまたがった地域です)は、当時フランスが植民地化していました。しかし、英国と交戦状態に入ったナポレオンは戦費調達を最優先し、ルイジアナをアメリカに売却すると持ちかけたのです。しかも、急いでいたので全体で千五百万ドルという破格の安い値段でした。この時、ジェファーソンがフランスに派遣して交渉させたのが後に第五代大統領になるジェームズ・モンローです。彼は取引のチャンスを逃すまいと独断でナポレオンの要請を受け入れました。素早い判断は、後に大統領になる資質があったからかもしれません。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 pp.24-25

満場一致で二度も大統領に選出されたのはワシントンだけです。副大統領は独立宣言の起草者の一人で、後に第二代大統領となるジョン・アダムズが二期とも選出されました。
 ワシントンは最初の国務長官に建国の英雄の一人で、州権主義を唱えるトマス・ジェファーソンを任命し、財務長官には中央集権主義のアレグザンダー・ハミルトンを配して、バランスを取りました。しかし、ジェファーソンの共和派(リパブリカンズ=Democratic-Republicans)と、ハミルトンの連邦派(フェデラリスツ=Federalists)は次第に対立を深め、ワシントンが三選を辞退した後は、両派の確執は激しさを増していきます。ワシントン自身の考え方は連邦派に近いものでした。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』岩波ジュニア新書 p.19

 新憲法に則って、独立の英雄ワシントンが初代大統領に就任。第二代のジョン・アダムズ、第三代のジェファーソン、第四代のジェームズ・マディソン、第五代のジェームズ・モンローと、独立戦争を戦った指導者たちが相次いで大統領の座に就きます。特に、アダムズを除く四人は植民地時代のバージニア州の出身者で、その後も四人の大統領を輩出。全米で最も多くの大統領を送り出した州になっています。ちなみに、アダムズとジェファーソン、モンローはいずれも亡くなった日が7月4日の独立記念日。しかも、アダムズとジェファーソンは独立宣言からちょうど50年後の1826年7月4日に同時に亡くなっています。偶然でしょうが、それだけ初期のアメリカの指導者は独立への思いが強かったと言えるかも知れません。

大統領でたどるアメリカの歴史 (岩波ジュニア新書)

村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 pp.164-165

ルターはドイツ語の聖書を作ったことで知られている。だが黒死病の荒れ狂う真只中で、オックスフォードのジョン=ウィクリフ(J.Wycliffe,c.1320-84)を中心とする聖書の英語への翻訳運動が完成したことを、われわれは見落とすべきではないのである。
 クラウズリー=トンプスンは『歴史を変えた昆虫たち』のなかで、こうした「日常言語」重用の思想を黒死病の直接的影響の一つとして挙げている。イギリスにおける、ラテン語はもちろんフランス語重視の態度は、ノルマン征服以降のイングランドの習慣となっていたが、黒死病によって、年配のフランス語教師たちがすっかりいなくなってしまった結果、フランス語やラテン語を知らない人びとが、イングランド語で発言することが可能になった、というのである。

ペスト大流行―ヨーロッパ中世の崩壊 (岩波新書 黄版 225)

宮崎正勝『海図の世界史』新潮選書 pp.255-256

 水夫からたたきあげで海軍士官(航海長)になったジェームズ・クックは、フレンチ・インディアン戦争(1755-63)中のケベック包囲戦に航海長として参戦し、セントローレンス川河口の測量と海図の作成によりその手腕が評価された。1760年代になると、強風が吹き荒れ、夏でも海霧に覆われるニューファンドランド島を五年間にわたって測量し、航行が困難な海域での海図の作成で功績を残した。クックが現場で身につけた優れた測量技術、海図の作成技術は、イギリス海軍本部、イギリス王立協会の注目するところになり、やがて新たなミッションがクックに与えられることになった。
 1766年、王立協会は太陽の全面を通過する金星の観測を計画し、クックを観測船エンデバー号の船長として南太平洋に派遣した。観測の狙いは金星と太陽の距離の正確な計算だった。命を受けたクックは1768年にプリマスを出港、大西洋を南下して南アメリカ南端のホーン岬を迂回し、太平洋を横断する大航海の後にタヒチ島に到着した。そして三カ月間にわたり、王室天文官の金星観測を助ける使命を果たした。観測終了後、クックは海軍本部の指令で「プトレマイオスの世界図」以降謎とされて来た「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」の探検に転じることになった。探検の真の目的は、「未知の南方大陸」にあると考えられていた黄金の獲得だった。クックはタヒチ人を水先案内人として南方海域に乗り出し、ニュージーランド南島と北島の間の海峡(クック海峡)を発見した、そして更に、ニュージーランドの海岸線を詳しく海図化する。

海図の世界史: 「海上の道」が歴史を変えた (新潮選書)

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