中村元『古代インド』講談社学術文庫 pp.165-166

 その当時、ガンジス川平原における最大の政治勢力はマガダ国であり、インドはナンダ王朝の支配下にあったが、同国出身の一青年チャンドラ・グプタが卑賤の身分から身を起こして、西紀前317年ごろに、おそらく北西インドにおいて挙兵し、同地域からギリシアの軍事的勢力を一掃してマガダ地方に侵攻した。そうしてさらに、北はヒマラヤ山麓におよび、南はヴィンディヤ山脈を越えて南インドにわたり、東はベンガル湾、西はアラビア海に達するインド最初の大帝国を建設した。
 たまたまシリア王セレウコス・ニーカトール(在位前305~前281)が、西紀前305年にインダス川を越えて侵入してきたが、チャンドラ・グプタはその軍隊を撃破した。そして、講和条件として、両王家のあいだに婚姻関係が結ばれ、チャンドラ・グプタはセレウコスの王女を妃としたらしい。また、チャンドラ・グプタは、アリア、アラコシア、ゲドロシア、パロパニサダイの四州(Satrapeia)を手に入れ、これに対してセレウコスは象五百頭という比較にならぬ小額の代償をえただけであった。
なぜセレウコスは、そのような広大な領地を割譲してまで、象五百頭を欲したか。むろん、これらの象は愛玩用でもなかったし、荷物の運搬のためのものでもなかった。それは当時最強の戦力だったからである。
 彼は、のちにこれを西方の戦線に出動させる。象隊による戦法は西方においてはまったく新しいものであった。そして、小アジアにおけるイプソスの会戦(前301年)において勝利を決定する原因となった。セレウコスはこれによってアンティゴノスを破り、シリア王国の基礎を固めた。そして、これを契機として、その後、西洋の戦争に象隊が使用されることになる。

古代インド (講談社学術文庫)

鈴木秀夫『気候の変化が言葉をかえた』NHKブックス pp.111-112

ヨーロッパにおいては、第2図にあるように南下するインド・ヨーロッパ系の人々のうち、ギリシア人が3800年前ころバルカン半島に入り、ヒッタイト人は4000年前ころアナトリア高原を支配する。アーリア人は3500年前ころインダス川のほとりとメソポタミアに到達する。インダス文明の担い手であったドラヴィダ人は南東に追いやられる。メソポタミアのハンムラビ王朝はアーリア人侵入に先立ち、ヒッタイトの攻撃で3500年前ころ滅ぼされる。
 アフリカにおいては、サハラ中央部で4000年前ころ、本格的な乾燥化がはじまったことは先に述べたが、このころアハガル台地にいたフルベ人がセネガルにむかっており、またサヘルへ南下する人の動きも報告されており、これらが乾燥化に追われた移動であったと推測される。
 中国大陸においては、4000年前ころ、黄河の中流にいた苗人が漢人に追われ大挙して南下し、長江中流に移動したという説があり、第一部において特異な存在として注目した侗人も、もと中原にいたが、苗人に追われて南遷をしたという伝承があるという。

気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ (NHKブックス)

鈴木秀夫『気候の変化が言葉をかえた』NHKブックス pp.160-161

 ヨーロッパの10世紀は、まだ侵略者の力が強かったが、955年にはハンガリー騎兵による略奪は阻止される。
 ノルマン人はまだ力があり1030年ころ南イタリアに上陸し、これに対してローマ教皇がビザンツ帝国と結んでおさえようとしたが失敗、その過程で両者の反目が表面化し、1054年、互いに破門をするという事態にいたる。
 もうひとつのヨーロッパへの侵入者はアラビア人であったが、11世紀の初頭には、イベリア半島で軍事的優位を失う。アラビア人とマジャール人による侵略が終わると、西欧世界の拡大が行なわれる。1050~1300年の大開墾時代は、高温に助けられたものと考えられ、ドイツ人の東方植民が行なわれる。ドイツ人の東進はその東にいたスラブ人の東進でもあり、これはかつて寒冷化によってドイツ人がいなくなったところへスラブ人が入ってきたのとは違って、ドイツ人が攻撃をしかけている。1000年ころ、スラブ諸語の最終的な方言分裂が行なわれたということであるが、このような移動にかかわりがあるのかも知れない。
 11世紀から13世紀にかけての人口の増加はスペインでも顕著で、言語にかかわることを述べると、このころラテン語が後退しロマンス諸語に分かれる。地中海地域は西欧のキリスト教によって再征服され、やがて1096~1099年の第一回十字軍となる。

気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ (NHKブックス)

蟹澤聰史『石と人間の歴史』中公新書 p.76

 デルポイは地震の多い地域にある。実際、多くの建物が地震で破壊された。デルポイには、ギリシア最古の神託所があった。アポロン神殿の神託は、地の深い亀裂から響いてくる意味不明の託宣を巫女が聞き唱え、それを神職者たちが解釈したものだという。付近を通る断層から流出したメタン、エタン、エチレンなどの軽い炭化水素を吸い、恍惚状態になって発した叫びが巫女の託宣であるという説が浮上している。

石と人間の歴史―地の恵みと文化 (中公新書)

柿崎一郎『物語タイの歴史』中公新書 p.111

 コメの輸出自体はすでに「開国」前から存在しており、古くはアユッタヤー時代にまで遡る。ところが、19世紀に入り東南アジアに列強諸国から本格的に進出し、植民地経済が構築されていくと、島嶼部を中心にコメの需要が急増した。すなわち、島嶼部において列強諸国が特定の商品作物栽培を奨励あるいは強制した結果、消費用のコメを外国に依存する必要が生じたのである。この島嶼部の「米蔵」として注目を浴びるようになったのが、大陸部の三つのデルタ、すなわちエーヤワディー、チャオプラヤー、メコンの各デルタであった。以後タイにおける商品作物としてのコメの栽培の急速な拡大をもたらし、これまで人家もまばらで猛獣の跋扈していたチャオプラヤー・デルタが運河掘削によって一大水田地帯へと変貌する契機でもあった。タイのコメ輸出量は、バウリング条約締結当時は年五万トン程度に過ぎなかったが、19世紀末には五〇万トンに達するまでに拡大した。

物語タイの歴史―微笑みの国の真実 (中公新書 1913)

柿崎一郎『東南アジアを学ぼう』ちくまプリマー新書 pp.31-32

 1884年にベトナムの植民地化を完了したフランスは、三国干渉の結果ベトナム(越)から雲南(滇)へ至る滇越鉄道の敷設権を確保し、1910年までに全線を開通させました。この滇越鉄道の起点となったのがハノイの外港であったハイフォンであり、終点は雲南省の省都・昆明でした。この鉄道は昆明に到達した初の鉄道で、第二次大戦後に中国国内から鉄道がのびてくるまで、雲南省と外界とを結ぶ文字通りの生命線として機能していました。
 1937年に日中戦争が始まると、中国の蒋介石が率いる国民党政権は長江(揚子江)中流の重慶に拠点を構え、日本に対する抗戦の拠点としました。この重慶に対して、アメリカやイギリスなどの後の連合軍は支援物資を輸送することになり、日本側に妨害されないような輸送ルートを探しました。これがいわゆる援蒋ルートと呼ばれるもので、その際に最も便利なルートが、この滇越鉄道を利用するルートでした。このため、第二次大戦が始まって1940年にフランスがドイツに敗退すると、日本は援蒋ルートの遮断を名目にフランス領インドシナ(仏印)北部への軍隊の進駐を認めさせたのです。やがて日本軍は仏印南部にも軍隊を進め、1941年12月にマレー半島とタイへ侵攻することでいわゆる太平洋戦争が始まるのです。

東南アジアを学ぼう 「メコン圏」入門 (ちくまプリマー新書)

越智道雄『大英帝国の異端児たち』日経プレミアシリーズ pp.127-128

 この状況で1874年、二度目の政権を奪ったディズレーリは、どうしたか?ついに「露土戦争」(1877~78年)が勃発、キリスト教と救出を名目にバルカンに侵攻したロシアが勝って、ビスマルクが戦後処理にかこつけて自国の勢力を扶植すべく「ベルリン会議」(1878年)を開いた。プロイセンにバルカンで漁夫の利を占めさせれば、すでに普仏戦争(1870~71年)に大勝したプロイセンが、ロシアに加えて新たな脅威となる。まずディズレーリが女王を「インド女帝」に祭り上げたが、それは以下の戦略に基づいていた。
 (1)ロシア皇帝より格上げし、中央アジアをロシアから奪取してカスピ海以西に封じ込める。(2)そのためにアフガニスタンに侵攻までした。(3)そこで彼はプロイセン、ロシア、トルコの間に割って入り、バルカン四国の独立に対してはトルコのためにケチをつけた(ブルガリアの完全独立を阻止)。(4)ロシアにはカフカスの領有権だけで抑えた。(5)さらにディズレーリは抜群の海軍力にもの言わせてダーダネルス海峡に艦艇を派遣して示威行為を展開、ちゃっかりキプロスの占領行政権をせしめて、ビスマルクに「あのユダヤ爺めが、やりおるわ」と舌打ちさせたのである。
 結果的にプロイセンにロシア封じ込め役まで押しつけたディズレーリは、以後三十六年間、ヨーロッパから戦火を遠ざけた。まさに「一角獣」が、縦横無尽に突きまくったのである。

大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)

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