宗教戦争に明け暮れ、ペストや大火の被害をまともにうけた17世紀が終りを迎え、やがて18世紀へ入ってゆくと、ヨーロッパ全体が明るくなっていったような印象を受ける。古気候学という学問が進むにつれて、16世紀後半から17世紀にかけての時代が、これまでにないほどの寒さに襲われ、降水量が多かったため、穀物の生産が最悪のレヴェルにまで落ち込んでいたことが明らかになった。しかし18世紀が近づいた頃から天候も回復し、穀物生産も向上して、人口が増えてゆく。森の樹木が大々的に伐採されて湿度が減り、爽やかな明るい時代がやってくるのである(もちろん18世紀にも天候の悪い時期があり、1709年から10年、1713年から14年、1727年から28年などは天候も悪く、不作であった)。そして17世紀前半のような宗教戦争の嵐が静まって、理性を基調とした精神風土が展開される。
コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)
岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 p.128
梅毒の広がった16世紀に、キリスト教世界では宗教改革が起こった。マルティン・ルター(1483~1546)は、神の恩寵は人々が神を信じ、質素で誠実に生きれば与えられると説いた。免罪符を非難し、一夫一婦制の厳守から売春に反対した。
清教徒(ピューリタン)は、さらに厳しく性行動を慎んだ。梅毒の蔓延を防ぐには売春を抑制し、夫婦制度を強化して、人々の中に純潔教育を施すことが必要とされたのだった。イギリスでピューリタンが発祥したのは、ヨーロッパでの梅毒蔓延の結果であるといわれる(W・H・マクニール『疫病と世界史』 佐々木昭夫訳 新潮社)。
やがてピューリタンは、アメリカへの植民に船出することになる。コロンブスの発見以来、ヨーロッパ人は搾取と殺戮の果てに黄金と香辛料を新大陸から持ち帰った。しかし、その報いに彼らの血流にのって梅毒のバクテリア、スピロヘータがヨーロッパへめぐっていったのであった。そして、その恐怖から生まれたピューリタンが再度船に乗って、スピロヘータの故国に移住していく。病原体とともに歴史もめぐっていく。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
清教徒(ピューリタン)は、さらに厳しく性行動を慎んだ。梅毒の蔓延を防ぐには売春を抑制し、夫婦制度を強化して、人々の中に純潔教育を施すことが必要とされたのだった。イギリスでピューリタンが発祥したのは、ヨーロッパでの梅毒蔓延の結果であるといわれる(W・H・マクニール『疫病と世界史』 佐々木昭夫訳 新潮社)。
やがてピューリタンは、アメリカへの植民に船出することになる。コロンブスの発見以来、ヨーロッパ人は搾取と殺戮の果てに黄金と香辛料を新大陸から持ち帰った。しかし、その報いに彼らの血流にのって梅毒のバクテリア、スピロヘータがヨーロッパへめぐっていったのであった。そして、その恐怖から生まれたピューリタンが再度船に乗って、スピロヘータの故国に移住していく。病原体とともに歴史もめぐっていく。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
ラベル:
ピューリタン(清教徒),
ピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖),
マルティン=ルター,
宗教改革
岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 pp.94-95
ペストは都市部だけではなく、農村にも打撃を加えていた。高騰した賃金目当てに農民が都市に流入したため、農村部でも人手不足が深刻となった。中世の封建制によって統制されていた耕地は、ただの耕地ではなく、ほとんどは荘園と呼ばれるものであった。中世の農民は、一部の自作農と多くの農奴で構成されている。封建領主は土地には執着はあっても、そこで働く農民は農奴であって、土地の付属品という認識しかなかった。
農民は夜明けから日没まで、星から星までの間を懸命に働き、そのほとんどの収穫物を領主に納めていた。しかし疫病の後、深刻な農村での労働不足が生じたとき、領主は農業生産者としての農民の役割を認めざるえなくなった。小作制が採用されるようになる。それが広まって、農業労働が対価として賃金で支払われるようになった。これは事実上農奴制度の崩壊そのものであり、荘園制度の崩壊と、封建制の没落を意味する。
労働問題の先駆的な国家であるイギリスでは時を同じくして、労働者問題に対する各種の画期的な法律が施行され始める。1349年の「労働者規制法」、1351年には「労働者勅令」が、農業労働者への措置として立法されている。
農業労働の人口減はヨーロッパの農業地図を変えていくことになった。耕作にあまり人手のかからない葡萄栽培が広がり、作業効率のよい牧畜がさらに増えることになった。葡萄栽培はワイン生産の増大につながり、牧畜は原料としての羊毛生産、さらに羊毛製品の生産までうながすことになる。イングランドの羊毛製品は以後、産業革命を経て伝統的な産業となっていく。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
農民は夜明けから日没まで、星から星までの間を懸命に働き、そのほとんどの収穫物を領主に納めていた。しかし疫病の後、深刻な農村での労働不足が生じたとき、領主は農業生産者としての農民の役割を認めざるえなくなった。小作制が採用されるようになる。それが広まって、農業労働が対価として賃金で支払われるようになった。これは事実上農奴制度の崩壊そのものであり、荘園制度の崩壊と、封建制の没落を意味する。
労働問題の先駆的な国家であるイギリスでは時を同じくして、労働者問題に対する各種の画期的な法律が施行され始める。1349年の「労働者規制法」、1351年には「労働者勅令」が、農業労働者への措置として立法されている。
農業労働の人口減はヨーロッパの農業地図を変えていくことになった。耕作にあまり人手のかからない葡萄栽培が広がり、作業効率のよい牧畜がさらに増えることになった。葡萄栽培はワイン生産の増大につながり、牧畜は原料としての羊毛生産、さらに羊毛製品の生産までうながすことになる。イングランドの羊毛製品は以後、産業革命を経て伝統的な産業となっていく。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
ラベル:
黒死病(ペスト),
産業革命,
独立自営農民(ヨーマン),
農奴解放,
毛織物工業
岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 pp.56-58
1333年の中国、元の最後の皇帝、順帝の時代に大変な長雨が続き、黄河が氾濫を起こした。水は地上三メートルにも達し、人も家畜も水没した。一方、別な地域では旱魃に見舞われていた。
そこに蝗害が発生して、大飢饉となった。空が真っ黒になり太陽の光も届かなくなるようなトビバッタの大群がやってきたのだった。トビバッタの大群は農作物を一掃し、残ったのは田畑一面の昆虫の死骸だけだった。この時、食べ物のなくなったアジアから、たくさんのクマネズミがヨーロッパへ移動していったともいわれている。そしてこの天変地異のあとを襲ったのが、疫病の発生だった。
このような自然災害の続くなかで、政府の無策に対して、大規模な農民の反乱「紅巾の乱」が起こった。後に元を倒し、明の太祖となった洪武帝は、このとき紅巾軍の兵士だった。旱害に見舞われ、蝗がやって来て、飢饉の中で家族は疫病で倒れ、生き残ったのは十七歳の彼だけだったという。
一方、ヨーロッパは、気候が寒冷期に移行しつつあった。気候の変動期には旱魃や洪水、暖冬や寒冬というように極端な状態がくり返されるが、天候不順のうちにヨーロッパに小氷期がやってきたのである。
14世紀の初めは、雨の冷たい夏が続き、農作物は不作続きであった。当然のように食糧は不足し、やがて飢饉はヨーロッパの北部に広まっていく。1315年から17年にかけて、北部ヨーロッパでは飢饉がますます酷くなり、農民はイラクサ、アシの葉、イバラなどの草の葉まで食べて飢えをしのいだ。この飢饉の波は二十年をかけて南下し、温暖な南の地方にも浸透していく。
農村では餓死者が相次ぎ、農民の離村と、それにともなう廃村もあった。慢性的食糧不足から来る劣悪な栄養状態のなかで人口は停滞し、さらには減少していく。そのうえ、アジアやイタリアを地震が襲った。イタリアでは地震の揺れで教会の鐘が鳴り出して人々に恐怖を与え、さらに津波が押し寄せた。
自然災害、天候不順による凶作、飢饉に加え、この時期のヨーロッパ西部は百年戦争の戦禍にも巻き込まれている。このような極限状態を背景にして、黒死病はやって来たのだった。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
そこに蝗害が発生して、大飢饉となった。空が真っ黒になり太陽の光も届かなくなるようなトビバッタの大群がやってきたのだった。トビバッタの大群は農作物を一掃し、残ったのは田畑一面の昆虫の死骸だけだった。この時、食べ物のなくなったアジアから、たくさんのクマネズミがヨーロッパへ移動していったともいわれている。そしてこの天変地異のあとを襲ったのが、疫病の発生だった。
このような自然災害の続くなかで、政府の無策に対して、大規模な農民の反乱「紅巾の乱」が起こった。後に元を倒し、明の太祖となった洪武帝は、このとき紅巾軍の兵士だった。旱害に見舞われ、蝗がやって来て、飢饉の中で家族は疫病で倒れ、生き残ったのは十七歳の彼だけだったという。
一方、ヨーロッパは、気候が寒冷期に移行しつつあった。気候の変動期には旱魃や洪水、暖冬や寒冬というように極端な状態がくり返されるが、天候不順のうちにヨーロッパに小氷期がやってきたのである。
14世紀の初めは、雨の冷たい夏が続き、農作物は不作続きであった。当然のように食糧は不足し、やがて飢饉はヨーロッパの北部に広まっていく。1315年から17年にかけて、北部ヨーロッパでは飢饉がますます酷くなり、農民はイラクサ、アシの葉、イバラなどの草の葉まで食べて飢えをしのいだ。この飢饉の波は二十年をかけて南下し、温暖な南の地方にも浸透していく。
農村では餓死者が相次ぎ、農民の離村と、それにともなう廃村もあった。慢性的食糧不足から来る劣悪な栄養状態のなかで人口は停滞し、さらには減少していく。そのうえ、アジアやイタリアを地震が襲った。イタリアでは地震の揺れで教会の鐘が鳴り出して人々に恐怖を与え、さらに津波が押し寄せた。
自然災害、天候不順による凶作、飢饉に加え、この時期のヨーロッパ西部は百年戦争の戦禍にも巻き込まれている。このような極限状態を背景にして、黒死病はやって来たのだった。
感染症は世界史を動かす (ちくま新書)
ラベル:
気候,
紅巾の乱,
黒死病(ペスト),
朱元璋(洪武帝・太祖),
百年戦争
臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 pp.199-201
ドイツ革命が海軍から始まったのは、まったく物の道理に従ったというべきである。海軍は戦争全体を通してすこぶる暇であった。余暇はあらゆる創造的解放的行為の源泉である。戦争初期の海戦の後まったくの膠着状態が続き、クックスハーフェン、ヴィルヘルムスハーフェン、そしてキール軍港の海軍兵士はなす術もなく毎日を送っていた。ジャガイモでも栽培するか、サッカーでもやっていれば良かったのかも知れない。しかし、どういうわけか、有効な余暇利用はなされなかった。食事も悪ければ、コーヒーもない。カラ元気も出ない。持て余した暇を革命的行動に直結させないためには、知的な会話で暇をつぶすのが一番である。ところが致命的なことに、海軍の知性的部分はU・ボート作戦に駆り出されており、一般兵士が毎日まみえる上官は早い話、知性を欠いた退屈な上官ばかりだったのである。一つ所に掻き集められ、毎日、退屈な上司と知性を欠いた会話を重ねながら、暇をつぶしていかなければならないほど不愉快なことはない。その挙げ句に、戦争もおしまいになった時点で出撃命令が出され、ヴィルヘルムスハーフェンを出航した水兵はついに堪忍袋の緒を切らし、反乱を起こしたのである。反乱兵士は逮捕され、キール軍港に送られることになった。そのキール軍港で水兵たちは「レーテ(協議会)」を結成し、ドイツ革命の火蓋を切ったのである。戦前、皇帝ヴィルヘルム2世はプロイセンの年来の宿願である海外雄飛を夢見て、バルト海と北海を直結する運河を完成させ、「ドイツの未来は海上にあり」と豪語していた。ドイツの未来が海上にあるならば、皇帝の未来も海上にあるはずであった。キールに燃え上がった火の手がたちまち運河を経てヴィルヘルムスハーフェンに飛び火したのが運の尽き。兵士の反乱は全海軍に広がり、ホーエンツォレルン家は海の藻屑と消えたのである。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
ラベル:
ヴィルヘルム2世,
キール軍港の水兵反乱,
ドイツ革命,
ドイツ帝国,
ホーエンツォレルン家
中野香織『モードとエロスと資本主義』集英社新書 pp.165-166
ファッション史には何度か、短期間に美意識や価値が激変する、スタイルの「シフト(移行)」が見られるのだが、2000年代はまさしく、その時期の一つとして数えることができる。
過去の代表的な移行期には、たとえば18世紀末から19世紀初頭にかけて、すなわちロココから新古典主義へと移る時代がある。この時代に、フランスの宮廷服が大きな変化を遂げている。ロココ時代には、女性は髪を高く結い上げたその上にさらに白い髪粉をかけ、胴体はコルセットで締め上げ、腰はパニエで巨大に膨張させていた。男性もかつらの上から髪粉をかけ、刺繍や金糸銀糸をたっぷりとほどこしたジュストコール(上着)にベスト、ニーブリーチズ(膝丈ズボン)で装い、バックル飾りのついたヒール靴をはいて、膝下の脚線美を誇っていた。
髪粉の原料は小麦粉であった。労働者階級が食べるパンがないというのに、貴族はその原料を装飾のために使っていたのである。そんな「粉飾」もまた労働者の怒りをあおる原因の一つとなり、フランス革命が起こる。「サン・キュロット(半ズボンをはかない)」と称する革命派は、半ズボンに象徴される貴族を次々に粛清していき、革命後、宮廷服は10年前には想像できなかったスタイルに変わっている。
革命後の社会の理想を古典古代のギリシア・ローマ時代に求めよう、という時代のムードに合わせるかのように、女性ファッションは古代ギリシア風の白いシュミーズドレスに変わる。パニエなどの装置も刺繍などの飾りもない、シンプルなドレスで、髪も自然に下ろしたナチュラルスタイルになった。
男性服は、英国のカントリージェントルマンの乗馬服に範を求めた服になり、脚線美誇示の長い伝統が失われ、次第にトラウザーズ(長ズボン)が主流になっていく。革命前と革命後のほんの10年間でのあまりの変わりようをからかう、カリカチュアまで存在する。
モードとエロスと資本 (集英社新書)
過去の代表的な移行期には、たとえば18世紀末から19世紀初頭にかけて、すなわちロココから新古典主義へと移る時代がある。この時代に、フランスの宮廷服が大きな変化を遂げている。ロココ時代には、女性は髪を高く結い上げたその上にさらに白い髪粉をかけ、胴体はコルセットで締め上げ、腰はパニエで巨大に膨張させていた。男性もかつらの上から髪粉をかけ、刺繍や金糸銀糸をたっぷりとほどこしたジュストコール(上着)にベスト、ニーブリーチズ(膝丈ズボン)で装い、バックル飾りのついたヒール靴をはいて、膝下の脚線美を誇っていた。
髪粉の原料は小麦粉であった。労働者階級が食べるパンがないというのに、貴族はその原料を装飾のために使っていたのである。そんな「粉飾」もまた労働者の怒りをあおる原因の一つとなり、フランス革命が起こる。「サン・キュロット(半ズボンをはかない)」と称する革命派は、半ズボンに象徴される貴族を次々に粛清していき、革命後、宮廷服は10年前には想像できなかったスタイルに変わっている。
革命後の社会の理想を古典古代のギリシア・ローマ時代に求めよう、という時代のムードに合わせるかのように、女性ファッションは古代ギリシア風の白いシュミーズドレスに変わる。パニエなどの装置も刺繍などの飾りもない、シンプルなドレスで、髪も自然に下ろしたナチュラルスタイルになった。
男性服は、英国のカントリージェントルマンの乗馬服に範を求めた服になり、脚線美誇示の長い伝統が失われ、次第にトラウザーズ(長ズボン)が主流になっていく。革命前と革命後のほんの10年間でのあまりの変わりようをからかう、カリカチュアまで存在する。
モードとエロスと資本 (集英社新書)
臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 p.125
1761年から1788年にかけて一ポンドのパンの値段は、一スーから七スーに急上昇していた。パンの価格を穀物輸入によって維持するような芸当ができる国は、まだ大英帝国に限られていた。商品価格が自分で勝手に上昇するわけがない。市場のメカニズムに疎い農民にとっては、パンの価格上昇の裏に誰か悪意ある人間の手が潜んでいるはずであった。農民暴動が頻発する。1787年、フランス全土は不作に襲われた。フランス人口の85%が農民の時代である。その農業が打撃を受けたのである。1788年は完全な不作。そしてこの年の冬、一切にとどめを刺すかのように厳冬が続く。
この時代の冬というものがどのようなものであるかは、ゴヤの『冬』(1787年)でおおよその察しはつく。しかし1788年から89年にかけての冬は桁が違った。ヴェネチアの潟すらも全面凍結し、人々はその上を歩いて渡った。ヨーロッパ全体が凍結したのである。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
この時代の冬というものがどのようなものであるかは、ゴヤの『冬』(1787年)でおおよその察しはつく。しかし1788年から89年にかけての冬は桁が違った。ヴェネチアの潟すらも全面凍結し、人々はその上を歩いて渡った。ヨーロッパ全体が凍結したのである。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書 pp.64-65
やがて商業資本と産業資本との矛盾が激化する。当時、貿易の支払いは銀で行なわれており、銀を支配するものが世界貿易を手中に収める仕組みになっていた。圧倒的な優位に立つのは、世界の銀生産量の90%を占めるメキシコ、ペルーを植民地として持つスペインであった。そのスペインの覇権も長くは続かない。メキシコ、ペルーはもとより、南北アメリカの植民地が銀と交換に欲していたのは毛織物であり、したがって強大な毛織物産業を有する国こそが世界貿易を支配する仕組みになってくるのである。羊が決め手であった。羊のいる風景、それはもはや牧歌ではなく、「羊が人を殺す」光景、スケープ・ゴートたる農民が「囲い込み」によって土地を追われ、賃金労働者となり、毛織物工業の機械化とともに始まる産業革命の幕開きである。
商業資本は国内の毛織物工業の育成を図らねばならない。とはいえ、商業資本家には価格格差が生命である。製品の価格は最低限に押さえねばならない。これは産業資本家には不満である。17世紀のイギリスは、産業資本が商業資本に対して闘争を挑み、優位を獲得するに至る時代であった。産業資本が、王権と深く結びついた巨大独占商業資本に対して起こした闘争の特殊な性格が、ロンドンのコーヒー・ハウスの特殊な性格を説明するのである。
王権と巨大商業資本が従来の「公の世界」を占有していたのに対し、産業資本家は「民間人」であり、公権力の行使に参与を許されない人間、その意味では私人であった。つまりは「いまだゼロ」であるところの第三階級である。その彼らが王権と商業資本に対して闘争を展開し、産業資本の利益を追求するためには、従来の公の世界とは違う「公的世界」に訴える他なかった。いわば中世的な「公衆浴場」のぬるま湯に浸っていた公衆が、産業資本主義のイデオローグたちによって湯舟からたたき出され、王や政府の「公権力」に対抗する近代的権力ファクターとして動員されるのである。しかし動員しようにも、イギリスはまだ無い無い尽くしである。新聞、ラジオ、テレビ、ダイレクト・メール、電話。なにもない。商業資本と産業資本のイデオロギー的対決はパンフレットと口コミを使って、この新たな権力ファクターとなりつつある、判断し批判する公衆を、いかに自己の側に引き入れるかにかかっていた。ちょうどその時、新種の公共的制度、コーヒー・ハウスが生まれていたのである。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
商業資本は国内の毛織物工業の育成を図らねばならない。とはいえ、商業資本家には価格格差が生命である。製品の価格は最低限に押さえねばならない。これは産業資本家には不満である。17世紀のイギリスは、産業資本が商業資本に対して闘争を挑み、優位を獲得するに至る時代であった。産業資本が、王権と深く結びついた巨大独占商業資本に対して起こした闘争の特殊な性格が、ロンドンのコーヒー・ハウスの特殊な性格を説明するのである。
王権と巨大商業資本が従来の「公の世界」を占有していたのに対し、産業資本家は「民間人」であり、公権力の行使に参与を許されない人間、その意味では私人であった。つまりは「いまだゼロ」であるところの第三階級である。その彼らが王権と商業資本に対して闘争を展開し、産業資本の利益を追求するためには、従来の公の世界とは違う「公的世界」に訴える他なかった。いわば中世的な「公衆浴場」のぬるま湯に浸っていた公衆が、産業資本主義のイデオローグたちによって湯舟からたたき出され、王や政府の「公権力」に対抗する近代的権力ファクターとして動員されるのである。しかし動員しようにも、イギリスはまだ無い無い尽くしである。新聞、ラジオ、テレビ、ダイレクト・メール、電話。なにもない。商業資本と産業資本のイデオロギー的対決はパンフレットと口コミを使って、この新たな権力ファクターとなりつつある、判断し批判する公衆を、いかに自己の側に引き入れるかにかかっていた。ちょうどその時、新種の公共的制度、コーヒー・ハウスが生まれていたのである。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)
坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 pp.104-105
一口に「プロイセン」というが、この国も諸領邦の連合体である。中心はエルベ川とオーダー川の間に発展したブランデンブルク辺境伯国=選帝侯国(首都ベルリン)、これと、はるか北東のバルト海沿いのプロイセン公国(1701年以降王国。首都ケーニヒスベルク)が結びついたもので、「ブランデンブルク=プロイセン」と言う方が国の実態に即している。なおこの「プロイセン」という国は、東方植民時代につくられたドイツ騎士団国が宗教改革を行って世俗のプロイセン公国になったもので、その際、最後の騎士団長で最初のプロイセン公になった人が、15世紀以来ブランデンブルク選帝侯であったホーエンツォレルン家の親族であったところから、17世紀はじめにプロイセンの方の家が断絶したとき、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねるという形で結びついたという、かなり複雑ないきさつで一緒になった国である。
なおホーエンツォレルン家は西方ライン川流域にも所領をもっていたが、この西の所領とブランデンブルクとプロイセンの三つが地理的にも離れている(西の所領との間にハノーファーなどがはさまり、プロイセンとの間にポーランドがはさまる)。だから東西で戦争に巻き込まれる危険にさらされるとともに、この国が地理的に「一つの国」になるには、どうしても間にはさまる国を併合しなければならない。そんな地政的宿命を負った国であった。スペイン継承戦争に際しオーストリア側に立ったことから、神聖ローマ帝国の域外にあった東方のプロイセンに関して特別に王号を許され、後には国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようにもなるが(国全体の呼称と区別するため、以後旧プロイセンは「東プロイセン」と呼ぶことにする)、国が基本的にバラバラであることには変わりはない。だからこそまた絶対主義確立に他国にも増して格別の努力が必要だったのである。
ドイツ史10講 (岩波新書)
なおホーエンツォレルン家は西方ライン川流域にも所領をもっていたが、この西の所領とブランデンブルクとプロイセンの三つが地理的にも離れている(西の所領との間にハノーファーなどがはさまり、プロイセンとの間にポーランドがはさまる)。だから東西で戦争に巻き込まれる危険にさらされるとともに、この国が地理的に「一つの国」になるには、どうしても間にはさまる国を併合しなければならない。そんな地政的宿命を負った国であった。スペイン継承戦争に際しオーストリア側に立ったことから、神聖ローマ帝国の域外にあった東方のプロイセンに関して特別に王号を許され、後には国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようにもなるが(国全体の呼称と区別するため、以後旧プロイセンは「東プロイセン」と呼ぶことにする)、国が基本的にバラバラであることには変わりはない。だからこそまた絶対主義確立に他国にも増して格別の努力が必要だったのである。
ドイツ史10講 (岩波新書)
ラベル:
スペイン継承戦争,
ブランデンブルク選帝侯国,
プロイセン
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