一口に「プロイセン」というが、この国も諸領邦の連合体である。中心はエルベ川とオーダー川の間に発展したブランデンブルク辺境伯国=選帝侯国(首都ベルリン)、これと、はるか北東のバルト海沿いのプロイセン公国(1701年以降王国。首都ケーニヒスベルク)が結びついたもので、「ブランデンブルク=プロイセン」と言う方が国の実態に即している。なおこの「プロイセン」という国は、東方植民時代につくられたドイツ騎士団国が宗教改革を行って世俗のプロイセン公国になったもので、その際、最後の騎士団長で最初のプロイセン公になった人が、15世紀以来ブランデンブルク選帝侯であったホーエンツォレルン家の親族であったところから、17世紀はじめにプロイセンの方の家が断絶したとき、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねるという形で結びついたという、かなり複雑ないきさつで一緒になった国である。
なおホーエンツォレルン家は西方ライン川流域にも所領をもっていたが、この西の所領とブランデンブルクとプロイセンの三つが地理的にも離れている(西の所領との間にハノーファーなどがはさまり、プロイセンとの間にポーランドがはさまる)。だから東西で戦争に巻き込まれる危険にさらされるとともに、この国が地理的に「一つの国」になるには、どうしても間にはさまる国を併合しなければならない。そんな地政的宿命を負った国であった。スペイン継承戦争に際しオーストリア側に立ったことから、神聖ローマ帝国の域外にあった東方のプロイセンに関して特別に王号を許され、後には国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようにもなるが(国全体の呼称と区別するため、以後旧プロイセンは「東プロイセン」と呼ぶことにする)、国が基本的にバラバラであることには変わりはない。だからこそまた絶対主義確立に他国にも増して格別の努力が必要だったのである。
ドイツ史10講 (岩波新書)