なおホーエンツォレルン家は西方ライン川流域にも所領をもっていたが、この西の所領とブランデンブルクとプロイセンの三つが地理的にも離れている(西の所領との間にハノーファーなどがはさまり、プロイセンとの間にポーランドがはさまる)。だから東西で戦争に巻き込まれる危険にさらされるとともに、この国が地理的に「一つの国」になるには、どうしても間にはさまる国を併合しなければならない。そんな地政的宿命を負った国であった。スペイン継承戦争に際しオーストリア側に立ったことから、神聖ローマ帝国の域外にあった東方のプロイセンに関して特別に王号を許され、後には国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようにもなるが(国全体の呼称と区別するため、以後旧プロイセンは「東プロイセン」と呼ぶことにする)、国が基本的にバラバラであることには変わりはない。だからこそまた絶対主義確立に他国にも増して格別の努力が必要だったのである。
ドイツ史10講 (岩波新書)