ペストは都市部だけではなく、農村にも打撃を加えていた。高騰した賃金目当てに農民が都市に流入したため、農村部でも人手不足が深刻となった。中世の封建制によって統制されていた耕地は、ただの耕地ではなく、ほとんどは荘園と呼ばれるものであった。中世の農民は、一部の自作農と多くの農奴で構成されている。封建領主は土地には執着はあっても、そこで働く農民は農奴であって、土地の付属品という認識しかなかった。
農民は夜明けから日没まで、星から星までの間を懸命に働き、そのほとんどの収穫物を領主に納めていた。しかし疫病の後、深刻な農村での労働不足が生じたとき、領主は農業生産者としての農民の役割を認めざるえなくなった。小作制が採用されるようになる。それが広まって、農業労働が対価として賃金で支払われるようになった。これは事実上農奴制度の崩壊そのものであり、荘園制度の崩壊と、封建制の没落を意味する。
労働問題の先駆的な国家であるイギリスでは時を同じくして、労働者問題に対する各種の画期的な法律が施行され始める。1349年の「労働者規制法」、1351年には「労働者勅令」が、農業労働者への措置として立法されている。
農業労働の人口減はヨーロッパの農業地図を変えていくことになった。耕作にあまり人手のかからない葡萄栽培が広がり、作業効率のよい牧畜がさらに増えることになった。葡萄栽培はワイン生産の増大につながり、牧畜は原料としての羊毛生産、さらに羊毛製品の生産までうながすことになる。イングランドの羊毛製品は以後、産業革命を経て伝統的な産業となっていく。
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