宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.387-388

 オスマン・トルコ帝国の領土は、はじめ黒海沿岸一帯をおおい、バルカン半島、シリア、エジプトから北アフリカに延長し、一方はメソポタミアを領有してペルシア湾にのぞんでいたので、従来の立場からすれば、東洋からヨーロッパへの交通路線は、すべてトルコ領内で集約されるはずであった。事実トルコ帝国が起りかけた14、5世紀までは、中国、インドからヨーロッパにいく通路は、必ず一度はトルコ領内またはその近くを通過しなければならなかった。全盛時代のトルコ帝国はアジア、ヨーロッパ、アフリカ三大陸にまたがる世界の中心に位置していたのである。
 しかしこの形勢はつぎの16、7世紀から急激に変化しはじめた。それはポルトガルの新航路発見により、ヨーロッパの商船はトルコ領土の付近にさえも立ち寄らないでインドに到達し、それから南洋諸島、あるいは中国沿岸にまで行程を延ばすことができる。一方陸路は、ロシアのシベリア征服により、極北迂回路が成立して、中国はロシア領を通過してヨーロッパに結ばれ、以前のようにトルコ領に立ち入る必要がなくなった。トルコ帝国はまったく世界の交通から、したがって世界の進歩からも取り残された孤島となって横たわるに過ぎない。トルコ帝国は東アジアからもヨーロッパからも忘れられた存在になったのである。そして他から忘れられた存在は、太平の夢を貪って惰眠をつづけるのに都合がよかった。トルコ帝国は世界的競争から脱落するとともに、急激に衰微し、頽廃しはじめたのであった。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 p.307

 宋代には南中国を中心として大いに科学的知識が発達したが、それはおそらくアラビア人の刺激によったものであろう。北宋中期、王安石と同時代の政治家沈括の『夢渓筆談』には、新しい科学知識が記されているが、かれはアラビア商船の輻湊する泉州の人である。宋代の新学である性理の学は、イスラム神学から影響を受けているかとも思われるが、まだ実証されていない。朱子が地球の球体であることを知っていたのは、おそらくアラビア天文学から教わったものであろう。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 p.284

 豊臣秀吉の朝鮮の役もまた、明の鎖国主義にたいする抗議の変形したものであった。すなわち尋常の手段では、大陸と平等の立場にたって自由な国交貿易を行なうことができないので、まず朝鮮に兵を進めて明と国交を開く契機をつかもうとしたのである。秀吉の前後二回の朝鮮出兵に際して、明は朝鮮をたすけるために大軍を送ったが、この輸送路にあたる南満遼東地方は、そのために侵されると同時に、交通の頻繁化によって物資が活発に動いた。このことは満州奥地に住む女真人に経済的な利益を与えたことも疑いない。そしてこれまでの中国人と女真人との対立は、いまや中国側の譲歩によって緩和され、明は対女真人の兵備を朝鮮に移動させたので、女真人が代わって遼河平野の沃地に進出する機会が与えられた。この時、女真人の中核となって活発な運動を開始したのが、遼河の支流である渾河の渓谷に居住する建州左衛の愛新覚羅氏であったのである。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.260-262

 セルジュク・トルコ帝国は、英主トグルルベク、アルプアルスラン、マリクシャー三代を経た後に国勢が衰微しかけた時、パレスチナにキリスト教聖地の問題から、西ヨーロッパの侵入をうけ、いわゆる十字軍戦争が勃発した。以後約160年間(1096-1254年)シリア海岸はイスラム・キリスト両教徒血戦のちまたとなり、東西両洋の交通貿易はこのために大きな障害をこうむらねばならなかった。世界的交通路の長期にわたる杜絶は必然的になんらかの副作用を招かずにはおかない。当時のヨーロッパ人にとって聖地の回復も熱望することであったが、戦争によって東方貿易路が閉塞し、必要な香料・調味料をインド方面から入手することができないのはいっそう困った問題であった。かれらはどんな手段に訴えても、当方の産物を獲得しようとした。この熱烈な要求に応じるためにかれらは黒海貿易路を開拓し始めた。これによればインドの物資はまず中央アジア、サマルカンド付近にで、そこからセルジュク・トルコ領を避けて北方に迂回し、黒海の北岸に沿ってヨーロッパに到達できるのである。この交通路はけっして新しいものではないが、いまや十字軍のためにシリア経由路が閉塞された結果、急に東西交通の大路として脚光を浴びて現われ、これに伴ってその沿線がまれに見る繁栄を誇るようになったのである。第四十字軍が目的地のシリアに向かわず、同盟国である東ローマ帝国を攻撃して、コンスタンチノープルを占領した目的は、かれらがこの新交通路のヨーロッパへの入口をおさえることにより、インド貿易の利益をほしいままにしようとする魂胆があってのことと察せられた。
 このような交通路線の変更の結果、中央アジアのサマルカンド付近からカスピ海、黒海の一帯は、インド物資の往来によって時ならぬ繁栄を示した。カラハン王朝を併合した西遼が南下してサマルカンドの領有を企てれば、セルジュク王朝から新しく独立したホラズム・トルコ王朝もまたその利益に垂涎し、ついに西遼を撃退してサマルカンドを確保するのに成功し、さらにインドへの通路に沿って領土を拡張してインド国境にまで到達した。こうしてインドから黒海にいたる交通路を占領したホラズム王朝はほとんどヨーロッパにたいしてインド物資供給の独占権をもつようになり、その領内には新首都サマルカンドをはじめ、ボカラ、メルヴ、ウルゲン等の諸都市がいずれも中継貿易都市として空前の繁昌を誇った。そしてホラズム王国からヨーロッパに達する中間にはなお黒海が横たわり、その北岸にはトルコ系のキプチャク人が同様の利益を享受して、富強に向かいつつあった。蒙古においてジンギス汗が出現したのはまさに、中央アジアでのこのような状態に際会したのである。中央アジアの繁栄が、蒙古人の掠奪の対象として指向されるのはまったく時機の問題にすぎなかった。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.185-186

 インドに最初の大統一をもたらしたマウリア王朝のアショカ大王の即位は、ペルシアのダリウス大王に遅れること約250年である。アショカ王がしばしばその領土を巡航して新附の民に王者の威徳を知らせ、いたるところに碑銘を刻んで官吏民衆に訓戒を垂れ、あるいは監察政治を強化して人民の福利安定を増進させようとしたことは、明らかにダリウスの先例に習い、ペルシア政治様式を意識的に採用したものであろう。
 同様のことは、さらに約50年をおくれて中国に出現した秦の始皇帝の政治方針についてもいえる。始皇帝が六国を平定すると、たびたび地方を巡狩して石に刻んで功を記したことは、それ以前の中国ではほとんど見なかったことであり、東は燕斉にいたり南は呉楚にいたる馳道を造って遠隔の地を国都咸陽に結合し、文字を一定にし、貨幣の重量を定めたことなどはたんに偶然の一致としてだけでは見逃せないものである。西アジアと中国との交通は歴史の記載に現われるものを待つまでもなく、すでに有史以前から行なわれた実証があるから、それ以後、時に断続はあっても、意外に密接な連絡のあったことを想像した方が事実に近いであろう。

アジア史概説 (中公文庫)

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』朝日文庫 p.224

 高句麗はこれまでは利口であった。北朝にも南朝にも朝貢していた。ところが南北朝とも隋にほろぼされたとき、その大波を高句麗はもろにかぶってしまった。
 高句麗はあわてて、この時期、モンゴル高原にいる突厥という遊牧民族国家と同盟をむすんだ。隋にとってはこれは迷惑で、蕃国の連盟は辺境の脅威であるため、しつこく高句麗を攻めた。代わって唐帝国が出現すると、同様の理由で高句麗を攻めた。高句麗はそのつど果敢に防戦し、つねに大唐帝国の大軍を撃退した。朝鮮史上、最強の国家であったであろう。
 新羅は、それをみていた。
 「むしろ大唐帝国と結ぶべし」
 という知恵が、その国際的窮境のなかで当然湧いて出たのである。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』朝日文庫 p.221

 百済が、南朝(六朝)の文化を模倣したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。南朝は六代のどの王朝の貴族もはなはだしく仏教を溺愛した。仏寺の勢力はほとんど国家と拮抗し、貴族たちは国王を畏れるよりも仏罰をおそれ、極端にいえば仏事にほとんど淫したといえるほどの態度でおぼれた。この百済にとってはるかな揚子江以南の文化が、そのまま百済の体質になった。百済が、それよりも野蛮な新羅にほろぼされるのは、国家の独立よりも思想や芸術に惑溺するという江南の爛熟しきった文明体質をそのままうけ容れてしまったことにもよるし、六朝のほろびとともに百済はほろぶという不思議な結果をまねくのである。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

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