玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ pp.47-48

 地中海諸国から北大西洋諸国へとヨーロッパ経済の中心が移動したといわれ、それが定説となっている。さらに前者は地中海経済を、後者は大西洋経済を開発したことによって可能となったとされてきた。しかし現実には、地中海から大西洋へとヨーロッパ経済の中心が直接移動したのではなく、地中海からバルト海をへて、大西洋へと移動したのである。地中海においてはイタリアが、大西洋においては――より正確には北大西洋貿易においては――イギリスが、バルト海においてはオランダが、貿易の中心になった。
 とくに穀物貿易に貸しては、16世紀後半から17世紀前半にかけては、アムステルダムが他を圧倒する商品集散地(entrepot)であった。バルト海地方から輸出される穀物は、ほとんどがまずアムステルダムに輸送されていたのである。
 1545年の時点では、アントウェルペンのほうがアムステルダムよりも(商品)輸出額が多かった。しかし、1550年代にアムステルダムがバルト海地方から穀物を大量に輸入するようになり、アムステルダムが急激に台頭した。
 アントウェルペンもバルト海貿易に参画していたが、アムステルダムほどには、この貿易から受けるインパクトは大きくなかった。アントウェルペンの貿易相手地域は、アムステルダムよりも少なかった。アントウェルペンの取引相手地域としては、ドイツの後背地、中欧、イングランド、イベリア半島などであった。そして低地地方の物産のみならず、イングランド産毛織物、ポルトガルからの香料などの商品が取引された。
 それとは対照的に、1580年代のアムステルダムの輸出入額は、表2に示されているように、バルト海地方の比率がきわめて高い。アムステルダムとアントウェルペンの貿易構造は大きく違っていた。アムステルダムの貿易構造は、たんにアントウェルペンの後継者にとどまらないほど異なっていた。アムステルダムの台頭とバルト海貿易のあいだには、切っても切れない関係があった。オランダのヘゲモニーないし「黄金時代」は、いわばこうした状況のもとで成立したのである。

近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

加藤隆『歴史の中の『新約聖書』 』ちくま新書 pp.35-37

紀元前8世紀後半に、メソポタミアでアッシリアの勢力が強大になり、北王国が滅ぼされてしまいます。
 この時に南王国は、外交的にうまく動いて、アッシリアの属国のような地位になったとはいえ、とにかくも独立を保ちます。南北に分かれていた王国の一方だけが滅んで、他方が存続したということが重要です。
 国が滅ぶということは、その国を守るべき神が動かなかったことを意味します。このような神は、頼りにならない神、ダメな神、として見捨てられるのが古代の常識です。
 南北の両方が滅ぼされていれば、ヤーヴェ崇拝は終わってしまって、歴史の闇の中に消えていったと思われます。しかしこの時に、南王国が残っていました。南王国は、北王国よりもヤーヴェ的伝統が強いところでした。南王国のダビデ王朝の王は、「神(ヤーヴェ)の子」とされていました。土地は、神が与えた土地でした。エルサレムにある神殿は、「神の家」「神の住むところ」とされていました。
 ユダヤ人たちの中には、ヤーヴェを見限った者も少なくなかったかもしれませんが、そのためにかえって、南王国には「ヤーヴェ主義」の傾向が強い者たちばかりが残ったということも考えねばならないかもしれません。
 いずれにしても南王国では、ヤーヴェ崇拝を簡単に捨てられませんでした。しかし、北王国という一つの国が滅んだということは、ごまかしようのない大きな事実です。「頼りにならない神」ということになったヤーヴェ、こんな神は崇拝できないというのが常識的な判断です。しかしヤーヴェ崇拝は捨てられない。
 ここで神学的に大きな展開が生じました。簡単に言うならば、ヤーヴェを「ダメな神」と考えないで済ませるために、「民」の側が「ダメ」なのだと考えることにしたのです。
 もう少し言うならば、「契約」の考え方を神と民の関係にあてはめて、「民」が「罪」の状態にあると考えることによって、神の「義」を確保する、ということが行われました。

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.101-102

 「人民のなかへ」の運動は失敗した。農民は立ち上がらなかった。学生たちはこの大実験からまなぶべく反省をはじめた。いったい何だって農村に大挙してでかけたのか。パリ・コミューンがひとつのショックだったことはまちがいない。無名の大衆が国家権力に反抗して立ち上がり、短い期間ではあったが、権力をにぎった。
 ヨーロッパでできたことがロシアでやれぬことはない。パリ・コミューンをやったのは社会主義者だ。社会主義は19世紀の福音だ。ヨーロッパの社会主義の軍隊のプロレタリアは工場労働者だ。ロシアのプロレタリアは誰か。それは農民だ。ロシアの社会主義は農民によって実現されるだろう。学生らは、福音の使徒として農村に行ったのだった。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.78-79

 ピョートル大帝がデンマークから帰化したヴィーツス・ベーリングに命じて北太平洋を探検させて以来、ロシアの毛皮商がアラスカに住みついていた。パウル帝がロシア・アメリカ商会にアラスカからカリフォルニアに至る海岸の狩猟権を与えていたが、乱獲でラッコが激減し会社の経営がうまくいかなくなった。クリミア戦争で財政難に陥ったロシア政府は、アラスカをアメリカ合衆国に売却することにした。その価格七〇〇万ドルが高いというのでアメリカの国会では大問題になった。ロシア政府はアメリカの新聞を買収して、けっして高くないといわせて、やっと1867年に商談を成立させた。
 ロシア人にアラスカを惜しがらせなかったのは、他方でどんどん領土がふえていたためである。ながく平定できなかったコーカサスを完全に領有したのは1864年であった。翌年きずかれた基地グラスノヴォットスクからコーカサス横断鉄道が敷設されてペルシアに向かった。そしてペルシアから多くの利権を得た。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

松田道雄『ロシアの革命』河出文庫 pp.13-14

 ゲルツェンらの世代にとって、デカブリスト事件は大きいショックだった。貴族が皇帝に反乱をおこした。そして刑罰からは除外されているはずの貴族が五人も絞首刑になったのだ。いったいデカブリスト事件とはなんだったのか。
1812年、モスクワに侵入してきたナポレオン軍の軍勢を焦土戦術によって逆転させたロシア軍は、追撃してヨーロッパにいたった。将校であった貴族青年は、自分の目で先制から解放された文明をみた。フランス語もドイツ語も自由にしゃべれる貴族は、町のなかで市民の自由を知った。ロシアは何というおくれた国か。このままでは、国の独立もやがてあやしくなる。専制政治と農奴制は廃止せねばならぬ。
戦争がおわって帰国した貴族青年たちは、改革について相談しあった。1816年、「救済同盟」という秘密結社がペテルブルクにつくられた。中心になったのは、ニキータ・ムラヴィヨフ、アレクサンドル・ムラヴィヨフ、セルゲイ・トルベツコイ公爵、ムラヴィヨフ・アポストル兄弟などであった。いずれも近衛師団の将校か名門貴族である。

世界の歴史〈22〉ロシアの革命 (河出文庫)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.44-45

 人参や貂皮の国際市場の中心は遼東地方であったが、当時、この地方を含む現在の中国東北一帯におもに住んでいたのは、女真と呼ばれる民族であった。すなわち、12世紀初めに金を建国し、中国北方を支配した人びとである。13世紀にモンゴルに滅ぼされて以来、東北の女真族も元の支配下にはいっていたが、14世紀に明朝が元朝を逐って東北を平定すると、女真の首長たちはつぎつぎに明に来朝した。明は彼らに武官の地位を与えるとともに、それぞれの首長に朝貢貿易をおこなう許可証を与えた。明との交易は彼らに大きな利益をもたらし、貿易の利権をめぐる激しい争奪戦のなかで、16世紀には貿易を独占する有力者がのしあがってくる。
 その一人が、のちに女真族を統一するヌルハチである。16世紀の中国東南沿岸が、中国人・日本人・ポルトガル人などのいりまじる荒々しい市場であったのと同様、同時期の遼東も、女真人・漢人・モンゴル人・朝鮮人などが混在する商業=軍事勢力の闘争場であった。1570年以来三〇年近くのあいだ、遼東で勢力をふるったのは、明の軍閥李成梁であったが、彼の庇護のもと、ヌルハチは急速に頭角をあらわし、女真諸部族の統一を進めて、人参や貂皮の交易を独占した。当時の女真経済は、農業とともに狩猟採集に依存していたといわれるが、狩猟採集といっても獣を狩ってその肉を食べたり木の実をとって食べたりする素朴な自給自足経済ではなく、国際交易と深く結びついた貂や人参など特産品の狩猟採集であったことに注目する必要があろう。諸民族のいりまじる市場に若いころから出入していたヌルハチは、有能な武将であると同時にまた「商業資本家」でもあったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット pp.39-40

 16世紀半ばの倭寇の被害、および明政府からみればもっとも侵略的な倭寇ともみえた同世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略など、度重なる事件によって日本にたいする強い不信感をもっていた明政府は、日本と中国とのあいだの直接的な貿易を禁止する政策を取り続けた。中国の生糸と日本の銀という、当時の東アジアでもっとも利益のあがる貿易は、同時にもっとも政治的な障害の大きな貿易でもあったわけである。もっとも官憲の禁止をかいくぐって日本に来航する中国船は跡を絶たなかった。
 そのなかで、日中双方に貿易拠点を確保したポルトガルがまず、16世紀後半に中国貿易を掌握したことはさきにみた。しかし、16世紀の末には、ポルトガルの優位はしだいにゆらいでくる。新興勢力オランダや日本の朱印船といいたライバルの進出に加えて、ポルトガルの貿易と結びついた宣教師の布教活動にたいする日本政府の弾圧が始まったからである。ポルトガル勢力の動揺にともなって脚光を浴びるようになったのが台湾である。もともと台湾には現在「高山族」などと呼ばれている先住民が住んでいたが、中国本土とはあまり関係がなく、漁船がたちよる程度であった。しかし、中国本土に拠点をもたないオランダや日本、スペインなどにとって、台湾は中国帆船との出会い貿易の絶好の拠点とみなされた。オランダは、スペインや日本と競合しつつ台湾に進出し、1624年、台湾南部の安平にゼーランディア城を築いた。
 当時中国の東南沿岸では多数の武装海商集団が活動していたが、生糸をはじめとする中国物産を供給してくれるパートナーとしてオランダが選んだのは、鄭芝龍という人物であった。鄭芝龍は日本の平戸に住んでいたときに日本人女性田川マツとのあいだに子どもを設けたが、これが清朝の中国占領後に最大の反清勢力を率いることとなる国姓爺こと鄭成功である。鄭芝龍は1630年代半ばに中国東南沿岸の海上支配をかため、鄭芝龍とオランダの連携のもとでポルトガル抜きの日中貿易が順調に動きはじめた。徳川幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁止し、オランダ船と中国船のみの来航を許した背景には、こうした日中貿易の覇権の交替があったのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

関連記事s