大野徹『謎の仏教王国パガン』NHKブックス p.250

 アラウンパヤーが第三ビルマ王国を樹立し得た背景には、イギリスから提供された高性能の大砲の存在があった。彼は、フランス人がモン族に武器を供給していたことを知っていた。国内諸民族制圧の過程で、大砲の必要性を痛感した王は、ビルマを訪れたイギリス人たちに、大砲の供給を繰り返し要求した。

謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史 (NHKブックス)

大野徹『謎の仏教王国パガン』NHKブックス p.241

 その子ダビンシュエーティー(在位1531-51)の時代になると、タウングーの軍事的、政治的地盤が固まって、もはやシャン族は脅威の対象ではなくなった。1535年、ダビンシュエーティーは、デルタ地帯の拠点二か所の占領に成功した。ハンターワディー(ペグー)の防衛は堅固であったが、四年後の1539年には、これも落城した。末代のペグー国王は逃走した。ダビンシュエーティーの軍事力の中核は、ポルトガル人傭兵であった。

謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史 (NHKブックス)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.156-157

 カージャール朝廃止の機会をねらうレザー・シャーは、1924年秋から共和制運動を起こした。これは、前年に建国が宣言されたトルコ共和国にならって、彼の主導でイランにも世俗的な近代国家をつくろうとするものであった。成功したあかつきには、尊敬してやまないアタテュルクにならって、レザー・シャーが大統領の座につくはずであった。
 しかし、この共和制運動は、彼の思惑をこえて別な方向に展開していった。シーア派ウラマーが共和制に反対する声をあげたからである。イランのウラマーは、トルコでカリフ制が廃止された結果、イスラームがないがしろにされ、ウラマーの力が削がれたことを知っていた。共和制樹立によって同じような状況がイランに生じることを、ウラマーは恐れていたのである。
 レザー・シャーは、このウラマーを先頭にした共和制反対運動を巧みに誘導し、ついには彼自身を大統領にではなく国王にすえる王制運動にすりかえていった。そして、1925年、共和制運動は換骨奪胎されパフラビー王朝が成立した。ウラマーの時代錯誤な判断の誤りがレザー・シャーに幸いしたのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.178

 1850年代末までにカザフスタンとカフカスとの完全な征服を完了したロシアにとって、キジルクム砂漠とカスピ海の彼方にひろがるトルキスタンは、南方のイギリス勢力圏を牽制する第一の戦略要地となった。ここで軍事的な勝利がえられれば、それはクリミア戦争(1854-56年)での敗北の屈辱をぬぐい、帝国の威信も回復するはずであった。
 そして、アメリカ南北戦争(1861-65年)のために原料綿花の輸入が激減すると、トルキスタンの綿花はロシアの木綿工業にとって決定的に重要な原料となった。それは1915年にはロシアが必要とした原料綿花の実に六八パーセントを占めることになるのである。
 1864年、ロシアはコーカンド・ハーン国に対する軍事遠征を敢行し、翌年には中央アジア最大の商業都市タシュケントを占領した。コーカンド・ハーン国のたびかさなる支援要請にもかかわらず、みずからも「東方問題」に呪縛されたオスマン帝国になすすべはなかった。ロシア軍の攻撃についてブハラ・ハーン国軍の侵略とキルギスの反乱とにさらされたコーカンド・ハーン国は、1876年ついに滅亡し、肥沃なフェルガナ地方はロシア領となった。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 pp.163-164

 オスマン帝国がスレイマン大帝の治世下(在位1520-66年)にその最盛期をむかえているとき、イスラーム世界の北辺をなす中央アジアでは、重要な変化がおこりつつあった。1552年にモスクワ大公イワン4世(在位1553-84年)が、ヴォルガ中流域の商業と交通の要衝カザンを占領したのである。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』講談社現代新書 p.32

 しかし、一方では内憂外患もつづいた。バルカンにおいては、近代西欧のナショナリズムの影響下に政治的独立を求めはじめた、非ムスリム諸民族の動きも強まりつつあった。そして、これに対するヨーロッパ列強の介入も増やしつつあった。このような状況下で、1829年には、セルビアの自治が認められた。1821年以来のギリシア独立運動も、1830年のギリシア独立をもたらした。
 他方、エジプトでは、特権拡大をめざすエジプト総督メフメット・アリ・パシャ(ムハンマド・アリー)が、1813年には、セリム3世時代以来メッカを占領してきたワッハーブ派追討の命令を実行し、ギリシア独立戦争にあたっても出兵して、スルタンに対し実績をつみかさねた。そして1823年には、オスマン中央政府に対し公然と反旗をひるがえし、オスマン軍をコンヤの戦いで破った。さらに1839年にもネジプの戦いで、ふたたびオスマン政府軍を大破した。
 アラブ地域のさらに西方、アルジェリアは1830年、フランスにより占領された。

イスラーム復興はなるか (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

芝原拓自『世界史のなかの明治維新』岩波新書 pp.18-20

 たしかに当時のイギリスは、海外での大軍事行動にいそがしかった。黒海さらに地中海へのロシアの南下をおさえるとして、フランスと連合してクリミア戦争(1853-56)を戦ったイギリスは、クリミア半島のロシア軍要塞セバストポリを、三四九日間にわたる激戦のすえに陥落させた。その戦勝の直後に、中国でアロー号事件が勃発した。広東に停泊中のイギリス船籍をもつアロー号を、中国船とみなした中国官憲が臨検し、一二人の中国人船員を海賊容疑で捕えたのが事件の発端である。のちに第二代駐日公使となった広東駐在領事パークスは、無断捜査と国旗侮辱への謝罪、および乗組員のひきわたしを要求し、アロー号にイギリス国旗はなかったと謝罪を拒否する中国側との交渉を決裂させ、広東で砲火をまじえたのである。
 イギリスはいそぎ大軍を派遣し、エルギン伯爵を全権大使に任命した。フランスも、広西省でのフランス人宣教師殺害事件への賠償要求を口実として、グロー男爵を全権大使に任命し、イギリス軍との共同行動をとることにした。ところがエルギンは、中国への途上、セイロンでインド人兵士(セポイ)の反乱の急報に接し、軍の一部をインドに送った。イギリスのインド植民地支配にたいする、最初の全土的独立戦争(1857-59)が勃発したのである。イギリスは、クリミアの戦勝もつかのま、ふたたびインドの各地に大兵を派して、鎮圧に二年以上も要した。しかもその間、英仏軍は中国で広東を占領し、さらに上海から華北に兵をすすめ、天津や首都北京につうずる白河河口の大沽砲台を攻撃してこれを占領した。こうして、第一次アヘン戦争による南京条約よりもさらに屈辱的な天津条約(1858)を中国におしつけ、あらたな数港の開港、揚子江の通商航行権、公使の北京駐在権、外国人の内地旅行(商用・布教・遊歴を問わず)権などを獲得した。

世界史のなかの明治維新 (岩波新書 黄版 3)

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