岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット p.12

 1550年代は、そうした倭寇の活動が最高潮に達した時期であった。同時に北方でもモンゴルの活動が活発化し、50年にはアルタン率いるモンゴル軍が長城をこえて深く侵入し、八日間にわたり北京城を包囲した。「北虜南倭」と連称されるモンゴルと倭寇の危機がこの時期同時に高まったのは偶然ではない。北方の軍事的な緊張が高まるほど軍事費は増大して中国の銀需要は強くなり銀需要が強くなるほど日本銀流入の圧力は高まる。このように「北虜」と「南倭」とは、遠く離れた中国の北と南で、銀を媒介に深い関係をもっていたのである。

東アジアの「近世」 (世界史リブレット)

川口マーン惠美『ベルリン物語』平凡社新書 pp.45-46

 イギリスの産業革命から半世紀以上も出遅れ、ようやく1830年代の終わりに始まったドイツの工業化が、なぜこれほど急速に進んだかというと、いくつかの理由が挙げられる。つまり、遅れていたからこそ、新しく建設する工場に最先端の技術を導入することができ、生産効率が高かったこと、また、遅れを取り戻そうとした政府が、積極的に資金を投資したことなどである。ドイツ産業の強みは、石炭、製鉄、機械にあった。そして、鉄道の大々的な敷設が、それらの産業の発達を強力にバックアップしていた。
 ドイツに初めて鉄道が通ったのは1835年のことで、ニュールンベルクからフュルトまでのわずか6キロだった。同じ頃、イギリスでは544キロの鉄道網が整備されていた。しかし、このあとのドイツの巻き返しは早い。三年後には、ベルリン-ポツダム間、その翌年にはライプツィヒ-ドレスデン間が開通し、鉄道開通のわずか五年後の1840年には、469キロになっていた。これによって石炭など資源の輸送が合理化され、また、農産物や工業製品の輸送も安価で迅速になり、流通は格段の進歩を見せた。
 ただ、急速な工業化と連動して、様々な社会問題が発生した。都市部に労働者が集中したため、住宅不足が起こり、労働者の生活環境は甚だしく悪化した。また、病気になったり、年老いて働けなくなれば、労働者の生活はその日から困窮した。長時間労働や危険労働、低賃金、一方的な解雇、あるいは児童就労といった状況を前に、労働者は自己を守る術を一切持たなかった。資本家は、ますます力を蓄え、有利な立場から労働者を搾取したため、ドイツ帝国が豊かになっていくのに反比例するように、労働者階級の貧困化が進んだ。このような状況から、必然的に労働運動が萌芽した。
 労働者の間に少しずつ権利意識が芽生え、労働運動が起こり始めたのは、1860年代だ。労働運動の牙城はベルリンである。1875年には、社会民主党(SPD)の前身である社会主義労働者党が結成された。そして、1878年10月に社会主義運動を弾圧する法律が制定された。

ベルリン物語 都市の記憶をたどる (平凡社新書)

杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』集英社新書 pp.158-159

 ここで、ルイジアナの歴史を少し振り返ってみよう。
17世紀後半、この地を最初に探検したフランス人一行が、当時のフランス王ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と命名し、それ以後、フランスが領有することになった。そして、「フレンチ・アンド・インディアン戦争」でフランスがイギリスに敗北すると、その領有権はスペインに移った。
 しかしルイジアナの統治は、スペインの財政を圧迫し、さらにこの地に移住してくるアメリカ人との衝突の可能性も高くなったために、スペインは1800年、秘密裏にフランスにルイジアナを返却していたのである。
 その一方でこの時期、アメリカの大統領トーマス・ジェファーソンは、メキシコ湾とミシシッピー川の接点に位置する交通の要衝だったニューオリンズという小都市を、アメリカに譲ってほしいとフランスに申し込んだ。
 これに対してフランスからは、ニューオリンズだけでなく、広大なルイジアナの土地すべてを購入してほしいという意外な回答が返ってきたのだ。
 当時のフランスは、カリブ海のハイチにおける黒人奴隷反乱の鎮圧に失敗し、さらにヨーロッパにあっては、イギリス、ロシア、プロイセンなどとの間で、ヨーロッパの支配をめぐって「ナポレオン戦争」(1799~1815年)を繰り広げていた。そのため、喫緊に軍事費が必要で、安値でもルイジアナを処分できればありがたいと考えていたのである。

知っておきたいアメリカ意外史 (集英社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.73-74

 1701年、ウィリアム3世は王位継承法により、イングランド王位にカトリック教徒は即けず、また王族もカトリック教徒との結婚を禁ずると制定した(この法律は21世紀の現在でも有効である)。この翌年、ウィリアムは落馬事故が原因で急死し、義理の妹アン女王(在位1702~14年)が即位した。
 アンの後継者としてハノーファー選帝侯を推す方針には根強い反対も見られた。特に、イングランドと同君連合で結ばれるスコットランドでは、ブリテン島に一度として足を踏み入れたことのないドイツのお殿様より、ジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを改宗させたほうがまし、との意見も出されていた。
 ここでせっかく百年も続いてきた同君連合をお終いにするのは危険である。そう感じたイングランドの政治家たちは、スコットランドに働きかけて、国同士の正式な「合同」にしたいと持ちかけた。イングランドへの従属に批判的な声も見られたが、スコットランドの大勢は合同に傾いていた。ここに1707年5月1日をもって、グレート・ブリテン連合王国が成立した。いわゆる「イギリス」の誕生である。
 その7年後の8月1日、アン女王は世継ぎを残さずに亡くなった。訃報はハノーファーにも届けられ、選帝侯ゲオルグがイギリス国王ジョージ1世(在位1714~27年。ジョージはゲオルグの英語読み)に即位することとなった。ハノーヴァー王朝(1714~1901年、ハノーヴァーはハノーファーの英語読み)の成立である。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

君塚直隆『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』光文社新書 pp.69-70

 王政復古とともにイングランド国教会も正式に復活し、チャールズが国王を兼ねるスコットランドは長老派プロテスタントが相変わらず主流を占めていた。そこにカトリックの国王が戻ってくるとは……。もちろん、チャールズはそのことは伏せていた。そんなことがばれたら、また大陸に追い返されてしまう。彼がカトリックであることを公言するのは、まさに死の床での「告解(罪の告白)」においてであった。
 ところが、チャールズより三歳年下の弟ジェームズ(ヨーク公爵)は、カトリック教徒であることを公然と認めていた。彼は、海軍長官として、北アメリカ植民地でのオランダとの戦争にも功績を残し、ニューネーデルラントと呼ばれていた領土は「ニューヨーク植民地」と彼の爵位名から名称を改められ、そのまま彼に下賜された領土でもあった。しかしカトリックであることが判明し、公職を解かれてしまった。

肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)

小林章夫『コーヒー・ハウス』講談社学術文庫 pp.86-87

 宗教戦争に明け暮れ、ペストや大火の被害をまともにうけた17世紀が終りを迎え、やがて18世紀へ入ってゆくと、ヨーロッパ全体が明るくなっていったような印象を受ける。古気候学という学問が進むにつれて、16世紀後半から17世紀にかけての時代が、これまでにないほどの寒さに襲われ、降水量が多かったため、穀物の生産が最悪のレヴェルにまで落ち込んでいたことが明らかになった。しかし18世紀が近づいた頃から天候も回復し、穀物生産も向上して、人口が増えてゆく。森の樹木が大々的に伐採されて湿度が減り、爽やかな明るい時代がやってくるのである(もちろん18世紀にも天候の悪い時期があり、1709年から10年、1713年から14年、1727年から28年などは天候も悪く、不作であった)。そして17世紀前半のような宗教戦争の嵐が静まって、理性を基調とした精神風土が展開される。

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』ちくま新書 p.128

 梅毒の広がった16世紀に、キリスト教世界では宗教改革が起こった。マルティン・ルター(1483~1546)は、神の恩寵は人々が神を信じ、質素で誠実に生きれば与えられると説いた。免罪符を非難し、一夫一婦制の厳守から売春に反対した。
 清教徒(ピューリタン)は、さらに厳しく性行動を慎んだ。梅毒の蔓延を防ぐには売春を抑制し、夫婦制度を強化して、人々の中に純潔教育を施すことが必要とされたのだった。イギリスでピューリタンが発祥したのは、ヨーロッパでの梅毒蔓延の結果であるといわれる(W・H・マクニール『疫病と世界史』 佐々木昭夫訳 新潮社)。
 やがてピューリタンは、アメリカへの植民に船出することになる。コロンブスの発見以来、ヨーロッパ人は搾取と殺戮の果てに黄金と香辛料を新大陸から持ち帰った。しかし、その報いに彼らの血流にのって梅毒のバクテリア、スピロヘータがヨーロッパへめぐっていったのであった。そして、その恐怖から生まれたピューリタンが再度船に乗って、スピロヘータの故国に移住していく。病原体とともに歴史もめぐっていく。

感染症は世界史を動かす (ちくま新書)

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