遅塚忠躬『フランス革命』岩波ジュニア文庫 pp.88-89

 いちばん右に貴族がいます。貴族は、89年以後には二つに分裂します。すなわち、多数の保守的貴族は、革命そのものに反対する反革命派になり、少数の(だが有力な)自由主義貴族は、ブルジョワと同盟して、いわば妥協的な改革で革命を終わらせようとします。
 いちばん左には民衆と農民がいます。この大衆の運動は、さきに67頁で見たように、旧体制の徹底的打破を求めると同時に、資本主義の発展に反対するという、二つの側面をもっています。したがって、彼らは、旧体制打破の側面ではブルジョワと同盟できますが、資本主義反対の側面ではブルジョワと対立しています。
 そこで、中央にいるブルジョワは、自由主義貴族と同盟して(大衆と手を切って)妥協的改革の道を選ぶか、それとも、大衆と同盟して(貴族と手を切って)徹底的革命の道を選ぶか、まことにむずかしい選択を迫られます。劇薬を飲まずに大衆と手を切れば、保守的貴族の反革命運動に対抗することが困難になりますが、劇薬を飲んで大衆と同盟すれば、その反資本主義的な要求にどう対処するのかが大問題になります。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

山室信一『日露戦争の世紀』岩波新書 pp.40-41

 ロシアが東アジアに進出する契機となったのは、アムール川(黒竜江)を両国の国境とし、その航行権などを清朝に認めさせた1858年の愛琿条約でした。清朝はこれを不満として争いますが、1860年、ロシアはアロー戦争における英仏連合軍の北京侵攻にあたって和議を斡旋した報償として、北京条約によって愛琿条約を再確認させるとともに、新たにウスリー川東岸の沿海州(プリモルスキー)を割譲させます。そしてロシア語で「東方を征服せよ」を意味するウラジオストクを海軍基地として開港しました。
 さらに、1878年のベルリン会議によって中東への進出を阻まれ、中央アジアでイギリスと対峙することになったロシアは、東アジアへの進出を図ります。しかし、タタール語で「眠れる大地」を意味したシベリアという広大な未開発地域があることによって、ウラル以東に軍事的行動をとることができず、東アジア政策には制約が伴っていました。
 この当時、世界の制海権はイギリスに握られており、特に東大西洋と地中海、インド洋などヨーロッパからアジアに至る海上交通路はイギリス海軍の手中にありました。そのためヨーロッパ諸国のアジア政策は最終的にイギリスによって左右されることになり、これによってパクス・ブリタニカ(イギリス主導の世界平和)が維持されてもいたのです。こうしたなかでロシアだけが陸路を通じてヨーロッパからアジアに至る可能性をもち、イギリスの制海権から自由に行動して、イギリス主導の国際政治に挑戦しうる潜在的な条件をもっていました。つまり、ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道が開通すれば、ロシア陸軍を東アジアに大量に短時日で動員できることとなり、イギリスの海軍力はそれに対する抑止力にはなりえなくなります。これはイギリスが中国において保ってきた通商権益や外交的優位性をくつがえすだけでなく、ウラジオストクから香港に至る制海権をロシアに握られる可能性を意味しました。実際、イギリスは香港以北にひとつの軍事基地ももっていませんでしたから、軍事バランスが大きく変ることは必然でした。

日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界 (岩波新書 新赤版 (958))

内田義雄『戦争指揮官リンカーン』新潮新書 pp.27-28

独立戦争の最中から南北戦争直前までの80年間で、アメリカの奴隷の数は8倍も増えたことになる。
 その背景のひとつに、ホイットニーの綿繰り機の発明があった。綿繰り機とは、つみとった綿の実を綿と種子とに簡単によりわける機械であるが、ホイットニーの綿繰り機によって、南部のプランテーション(大農場)では、綿の生産が増大し、利益が飛躍的にあがった。そのために、綿をつむ労働力(奴隷)がますます必要になったのである。
 その間に、信じられないことが起きた。イギリスの奴隷貿易禁止令(1808年)などによってアフリカからの奴隷輸入が減ったので、雑婚等々さまざまの手段によって、アメリカ生まれの奴隷の増殖が奨励されたのである。これらの奴隷の90パーセントは南部で働かされていたが、19世紀前半からの40年間(1820~1860年)で、南部の綿花の生産量は10倍も激増した。
 これは注目すべき事実である。アメリカの奴隷制は、建国以降に本格化したのである。

戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争 (文春新書)

後藤健生『サッカーの世紀』文春文庫 p.52

 フットボールは、労働者に一つの抽象的な目的、つまり生産(またはゴール)のために、一定の規律の下で自らを犠牲にして労働(またはプレー)することを教育する手段となると同時に、生活の不満から彼らの目をそらし、新しく生まれた地域(都市=工業地域)への一体感を持たせることもできる。そのため、資本家たちは労働者がフットボールをプレーする、あるいはプロの試合を観戦するための環境の整備に資本の一部を割くことに同意したのだ。
 こうして、アソシエーション式フットボール(サッカー)は労働者階級のスポーツとみなされるようになり、首都ロンドンをはじめ、織物産業や金属産業、あるいは炭鉱地帯であるイングランド中部、北部の新興都市、バーミンガム、リバプール、マンチェスター、シェフィールド、ニューキャッスル、サンダーランドなどに、次々とフットボールクラブが生まれ、それらのクラブがプロ化し、イングランドのプロ・リーグは大きく育っていったのである。

サッカーの世紀 (文春文庫)

菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書 p.236

 1700年11月16日というスペイン継承戦争前夜に皇帝レオポルトとブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ3世との間でいわゆる王冠条約があわただしく調印された。それによるとブランデンブルクは戦端が開かれれば直ちに皇帝に八千の軍隊を提供する。その代わり皇帝は選帝侯がプロイセン王を名乗ることを承認する、とある。
 プロイセンとはスラヴの一支族の定住地であり、帝国には属さない地方である。そして当時はブランデンブルク選帝侯国の主権的領地となっていた。そこで、選帝侯フリードリッヒ3世がブランデンブルク王となるのはまずいが、プロイセン王になるのは一向に構わぬということになる。
 むろんこれは単なる言葉のすり替えに過ぎず、実質的にはベルリンを王都とするブランデンブルク王国の誕生である。

神聖ローマ帝国 (講談社現代新書)

青木道彦『エリザベスⅠ世』講談社現代新書 pp.208-209

16世紀には修道院解散によって、国王が広大な土地を手に入れた。しかし、その大半は次々に売却されて主にジェントリの手に落ち、イングランド支配層の主導権は時代の変化に対応できなかった貴族から、勃興したジェントリに移っていったともいわれている。
 しかし、勃興したのは、時代の変化を有利に活用することができた一部のジェントリのみであったという指摘もある。
 <ジェントリ(一般)の勃興>を主張したものも、ジェントリにも経営に失敗して没落した者がいて、貴族でも有利な経営を行って成功した者があったことは認めているので、むしろ問題の核心は、当時はどんな経営が有利であったのかを具体的に整理することにあるように思われる。
 また、ヨーマンでも有利な経営で上位のジェントリになっていく者があったが、他方でこの時期に下位の農業労働者になった者も多かった。しかし、18世紀のいわゆる<農業革命>の時のように、ヨーマンという階層が消滅してしまうことはなかった。
 「有利な経営」とは、どんな経営であったのかを簡単に整理することはできないであろうが、16~17世紀は全ヨーロッパ的に概観してみても、市場向けの穀物生産が有利な事業となり得た時代であった。
 したがって東欧では、土地に縛りつけられた農奴の賦役労働を用いて行われる農場領主制が発展し、都市人口が増大して自国内の食糧生産では不足気味であった西欧諸国に多くの穀物輸出が行われていたのである。
 前に述べたように、イングランドでは大凶作に直面した時以外は、国内生産で国民の食料を確保していたので、穀物価格の上昇もあり、集約的な大農場による穀物生産は有利な事業となり得たのである。市場向けの資本主義的な穀物生産をどのように経営すれば有利であったか、それが問題であったものと思われる。

エリザベス一世 (講談社現代新書)

高坂正堯『世界史の中から考える』新潮選書 p.150

アダム・スミスの『国富論』は奇しくもアメリカの独立宣言の年1776年に刊行された。この著において、アダム・スミスは重商主義体制を批判して自由放任と自由貿易を提唱したし、植民地は本国にとって決して経済的には利益にならないことを主張したのであった。

世界史の中から考える (新潮選書)

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