山内進『北の十字軍』講談社選書メチエ pp.290-291

 繰り返すが、中世の「ヨーロッパ」は、内部にも外部にも十字軍を派遣し、「ヨーロッパ」の純化と形成、拡大を続けていた。イベリア半島では、イスラム教徒を追い出すための「再征服(レコンキスタ)」が十字軍(思想)と密接な結びつきのうちに展開されつづけた。そのレコンキスタの延長線上に、アフリカやアメリカがあることは、もはや明らかであろう。少なからぬローマ教皇が、イベリア半島に住むイスラム教徒を攻撃、支配、略奪することを、そしてキリスト教徒に「罪の赦免」をあたえ、攻撃し、奪い、征服することを赦していた。それは、大航海時代の教皇の勅書に直結する。
 また、プロイセンやバルト海沿岸地帯、今日のバルト三国に派遣された十字軍とその思想は、アフリカとアメリカへの「ヨーロッパの拡大」のひな形を提供するものであった。この地方は、かつてキリスト教徒が住んでいたわけでも、直接支配していたわけでもなく、イスラム教徒が強固な支配を行っていた事実もない。そこには単に比較的プリミティブな異教徒が住んでいたにすぎない。この十字軍は、キリスト教ヨーロッパの北のフロンティアを攻撃、支配し、その同化を図り、教皇と教会法学者はその実行を道徳的にも法的にも正当化した。これが、16世紀以降のアメリカ大陸の歴史を準備したのである。
 大航海時代は、ヨーロッパのフロンティアが大西洋とインド洋を越えて、世界に拡大する時代であった。ヨーロッパ大陸の枠の中で行われていた「ヨーロッパの形成」は、ここに大きな舞台を獲得する。イベリア半島とバルト海域で鍛えられた「ヨーロッパ拡大の論理」は、とりわけ新たに「発見」された、インディオやアメリカ・インディアンといった、比較的プリミティブな異教徒たちから支配権と財産権、信仰と自由を奪うことに貢献した。

北の十字軍 (講談社選書メチエ)

杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉』講談社現代新書 pp.226-227

 そのポスト・モンゴル時代、際立った大現象として、モンゴルほどではないけれども、モンゴル以前ではありえなかったような「大帝国」が、一斉に出現する。アジアでは、ヨーロッパとアフリカの一部を含む形で、東・西・南・北に四つの大単位の帝国が、長期にわたって並び立つ状況となった。
 東では、明帝国、そして17世紀半ばからは、大清帝国である。西では、オスマン帝国。南では、中央アジアを本拠に四周を切り従えたティムール帝国が16世紀、インドにまで南下して、ふつう「ムガル朝」と称せられる帝国をつくる。そして北では、300年余のモンゴル支配の中から16世紀半ば、ロシア帝国が浮上する(ロシアはずいぶんと長い間、東向きにシベリアとアジアへ「陸進」する。久しくロシアは、アジアに力点のかかった帝国であった。西向きにヨーロッパへ向かうのは、むしろその晩期である)。
 これらは、いずれも大型であるだけでなく、長い命をもつ帝国となった。最も早く解体したムガル朝という名の「第二次ティムール朝」でさえ、18世紀の後半まで続く。ティムールから通算すれば、なんと400年。インド帝国としても、250年余の生命を保った。そして、残る三つはすべて、20世紀にまで至る「老大国」となった。大清帝国は1911年、オスマン帝国は1922年、ロシア帝国は1917年に、それぞれ別々の「革命」で消滅する。

モンゴル帝国の興亡〈下〉 (講談社現代新書)

杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉』講談社現代新書 pp.205-206

 マムルーク朝にとっては、肝心のボスポラスを敵のラテン人が支配していた。ところが、ここでもまた、偶然と言えばあまりにも偶然なほど都合よく、1261年に変化が起きた。ニカエアに逼塞していたビザンツ帝国が、コンスタンティノープルを取り戻したのである。バイバルスにとって、視野は開けた。「ビザンツ皇帝」と言っても、ごくささやかな力しかなかったが、ともかく皇帝ミカエル・パラエオログスは、フレグの動向を気にしながらも、妨害はしなかった。ここに、フレグ・ウルスを敵とするヴォルガとナイルの南北同盟が成立したのである。
 これは、「イスラーム・キプチャク同盟」と言ってよい性格をもっていた。バイバルス自身をはじめ、マムルーク戦士の多くは、キプチャク草原の出身者であった。ずいぶん前から、ジェノヴァを筆頭とする黒海貿易に従事する奴隷商人の手を経て、かの地の若者たちは中東ヘ売られ、そこで「マムルーク」、すなわち奴隷軍人となった。キト・ブカのモンゴル軍を打ち破ったのは、こうしたトルコ系の騎馬戦士軍団であり、実のところ、モンゴル軍とマムルーク軍は似た者同士なのであった。急速にトルコ化、キプチャク化したジョチ・ウルスとエジプトのマムルーク朝とは、「兄弟国」と言っても差し支えない面々から成っていた。しかも、ベルケがイスラーム信仰を受容したことは、バイバルスにとって「イスラームの大義」を主張できる好条件となった。
 はさみ討ちにされる格好となったイランのフレグとその後継者たちは、この「縦」の同盟に対して、ヨーロッパのキリスト教世界に「横」の同盟を求めざるをえなくなった。この頃、フレグ家とそのウルスにはまだイスラーム色は薄く、むしろネストリウス派キリスト教の方に親近感を抱く者の方が多いくらいであった。

モンゴル帝国の興亡<上> (講談社現代新書)

礪波護『馮道』中公文庫BIBLIO pp.66-67

 ところで李克用は、当時のいずれの軍閥にも流行した風習に従って、多くの義子をもっていた。かれが最後まで後梁の圧迫に対抗しおおせたのも、この義子たちの尽力によるところが多かった。李克用の義子は百余人におよぶといわれ、李嗣源、李嗣昭、李嗣本、李嗣恩、李存信、李存孝らが著名である。また李克用には義児軍と称する部隊があり、それは義子によってひきいられたと考えられる。
 義子とか仮子とかいう形態をとらないまでも、私的・個人的関係によって結ばれた腹心的兵力をおいて権力を強化することは、この時期の節度使の一般的な傾向であった。すでに唐の中期以後、節度使が仮子関係によって結ばれた集団的武力を身辺におくことは、かなりひろく行われていた。安祿山も“曳落河”と称する数千人の養子部隊をもっていたという。ただ李克用のばあいに、多数の個々の義児たちが権力の中枢部を握るにいたったのが特徴的であった。
 義子とか仮子のような個人的結合関係は、古今東西を問わず、その中心となる主将の他界によって、容易に解体しかねないもろさをもっている。李克用の集団においても、その弱点が克用の死によって暴露された。李存勗は晋王の位についたが、克用の義子たちのほうが年長でもあり、兵権を握っていて、存勗の襲位をこころよく思わないものもいた。

馮道―乱世の宰相 (中公文庫BIBLIO)

牟田口義郎『物語 中東の歴史』中公新書 pp.182-183

 イスラーム世界における主人と奴隷との関係は、アメリカにおけるそれとはまったくちがう。『千一夜物語』を見れば、才色兼備の女奴隷が神学の大先生をやりこめる話をはじめ、さまざまな奴隷の話が語られているが、アメリカの場合に比べてはるかに開放的なところが特徴だ。主人と奴隷との関係は従属関係というよりは血縁関係に近かった。マムルークたちは主人の名をもらって自分の姓にするのがふつうだし、主人の子どもたちと同じ教育を受けた。また、いちばんすぐれたマムルークは家長として主人の後を継ぐことも多かった。当然彼らも不動の忠義をもって主人に仕え、主人のために戦うことになる。

物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)

牟田口義郎『物語 中東の歴史』中公新書 p.187

 バフリのもうひとつの特徴は完全にサーリフの私兵だったことである。約一万といわれる大部隊を個人の力で養うには、膨大な財力が必要だが、その点サーリフは恵まれていた。ローマ時代以来ヨーロッパ人がのどから手が出るほど欲しがるスパイスは、インドおよび南の島々で産するが、当時のスパイス・ルートは紅海からエジプトを経由、アレクサンドリアの港からヨーロッパへ、ヴェネツィア、ジェノヴァの商人たちによって運ばれていた。サーリフのふところは、その通過税でたっぷりふくらんでいた。当時のエジプトは、ヨーロッパを含む地中海沿岸諸国のうち、もっとも裕福ではなかったか。

物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)

臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書 pp.42-43

 プロイセンはナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15年)で、フランス、ロシア、イギリス、オーストリアに次ぐヨーロッパ第五の強国としての地位を確立した。しかし、それからすでに半世紀を経ている。プロイセンはオーストリア帝国を相手に、ドイツ統一の担い手を自負するに至っていた。が、プロイセンは依然として、陸軍大国でしかない。世界列強に名を連ねるための絶対必要条件というべき強力な海軍がない。海洋を舞台とする世界交易の時代に、プロイセンは完全に立ち遅れている。しまも、プロイセンのライバルというべきオーストリアはイタリアの海岸部を自分の領土とし、トリエステを基地に強力な地中海艦隊を保有していた。
 オーストリア地中海艦隊の活動が地中海に限られているなら問題はない。プロイセンにとって問題なのは、オーストリア地中海艦隊がジブラルタル海峡を廻って北海に出没し、盛んに「ドイツの艦隊」とはオーストリアの艦隊であることをデモンストレーションしていることであった。そこにはハンブルクやブレーメンといった、みずからは戦闘能力を保有しないことを売り物にしてはいるものの、やはり、いざというときには自分たちを守ってくれる海軍力を有した統一ドイツを望む、ドイツ語圏有数の商業拠点でもある帝国自由都市が並んでいた。もし、ハンブルクやブレーメンがプロイセンよりも、オーストリアとの友好を優先でもしようものなら、プロイセンを中心とする小ドイツ主義的ドイツ統一などありえない。
 しかも1856年、オーストリアがノヴァラ号によって世界周航という快挙を成し遂げていた。それに対して、初期のプロイセン海軍はもっぱら沿岸警備が目的であった。この海軍力の差は、ドイツ統一の主導権争いに決定的な影響をおよぼしかねなかった。

榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書 pp.16-18

 クリミア戦争はヨーロッパの国民国家形成時代の幕開けであった。発端は、フランス・ナポレオン3世が聖地イェルサレムの管理権を求め、オスマン・トルコがこれを認めたことにある。これを不服としてロシアがトルコに宣戦布告すると、フランスとイギリス、さらにサルディニア公国が、トルコを支援して参戦した。
 この組み合わせからしてすでに画期的である。17世紀以来、イスラム世界の雄としてキリスト教ヨーロッパ世界を威圧しつづけていたオスマン・トルコ帝国が、あろうことか英仏の支援を受けているのである。キリスト教ヨーロッパの分断政策がトルコのしたたかさであるとしても、オスマン・トルコ帝国自体は確実に弱体化している。オスマン・トルコの弱体化はしかし、地中海からバルカン半島、アラビア半島に至る全域で民族独立運動を加速させるだろう。しかも英仏はすでにイスラム教のトルコ帝国よりも、ロシア帝国により大きな脅威を覚えているのである。
 ロシアはオーストリアの参戦を期待した。ロシアのロマノフ王朝とオーストリアのハプスブルク家は、そもそも、ともにナポレオンを打ち破って以来、固い結束を誇ってきた仲である。
 しかしオーストリアは中立を保ったばかりか、ロシアに英仏との講和を要求した。ロシアとオーストリアの協調の終焉、それはロマノフ王朝とハプスブルク家という二大王朝の下に、ヨーロッパ各地の民族主義を押さえ込んできたウィーン体制の終焉を意味している。ヨーロッパ全体に国民国家への道が開かれ、それに乗じたサルディニア公国の参戦である。サルディニア公国のねらいはイタリア統一であり、イタリア統一運動の興奮はすぐにアルプスの彼方のドイツを筆頭に北欧諸国に感染し、またすぐにバルカン半島に跳ね返るだろう。

榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.387-388

 オスマン・トルコ帝国の領土は、はじめ黒海沿岸一帯をおおい、バルカン半島、シリア、エジプトから北アフリカに延長し、一方はメソポタミアを領有してペルシア湾にのぞんでいたので、従来の立場からすれば、東洋からヨーロッパへの交通路線は、すべてトルコ領内で集約されるはずであった。事実トルコ帝国が起りかけた14、5世紀までは、中国、インドからヨーロッパにいく通路は、必ず一度はトルコ領内またはその近くを通過しなければならなかった。全盛時代のトルコ帝国はアジア、ヨーロッパ、アフリカ三大陸にまたがる世界の中心に位置していたのである。
 しかしこの形勢はつぎの16、7世紀から急激に変化しはじめた。それはポルトガルの新航路発見により、ヨーロッパの商船はトルコ領土の付近にさえも立ち寄らないでインドに到達し、それから南洋諸島、あるいは中国沿岸にまで行程を延ばすことができる。一方陸路は、ロシアのシベリア征服により、極北迂回路が成立して、中国はロシア領を通過してヨーロッパに結ばれ、以前のようにトルコ領に立ち入る必要がなくなった。トルコ帝国はまったく世界の交通から、したがって世界の進歩からも取り残された孤島となって横たわるに過ぎない。トルコ帝国は東アジアからもヨーロッパからも忘れられた存在になったのである。そして他から忘れられた存在は、太平の夢を貪って惰眠をつづけるのに都合がよかった。トルコ帝国は世界的競争から脱落するとともに、急激に衰微し、頽廃しはじめたのであった。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 p.307

 宋代には南中国を中心として大いに科学的知識が発達したが、それはおそらくアラビア人の刺激によったものであろう。北宋中期、王安石と同時代の政治家沈括の『夢渓筆談』には、新しい科学知識が記されているが、かれはアラビア商船の輻湊する泉州の人である。宋代の新学である性理の学は、イスラム神学から影響を受けているかとも思われるが、まだ実証されていない。朱子が地球の球体であることを知っていたのは、おそらくアラビア天文学から教わったものであろう。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 p.284

 豊臣秀吉の朝鮮の役もまた、明の鎖国主義にたいする抗議の変形したものであった。すなわち尋常の手段では、大陸と平等の立場にたって自由な国交貿易を行なうことができないので、まず朝鮮に兵を進めて明と国交を開く契機をつかもうとしたのである。秀吉の前後二回の朝鮮出兵に際して、明は朝鮮をたすけるために大軍を送ったが、この輸送路にあたる南満遼東地方は、そのために侵されると同時に、交通の頻繁化によって物資が活発に動いた。このことは満州奥地に住む女真人に経済的な利益を与えたことも疑いない。そしてこれまでの中国人と女真人との対立は、いまや中国側の譲歩によって緩和され、明は対女真人の兵備を朝鮮に移動させたので、女真人が代わって遼河平野の沃地に進出する機会が与えられた。この時、女真人の中核となって活発な運動を開始したのが、遼河の支流である渾河の渓谷に居住する建州左衛の愛新覚羅氏であったのである。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.260-262

 セルジュク・トルコ帝国は、英主トグルルベク、アルプアルスラン、マリクシャー三代を経た後に国勢が衰微しかけた時、パレスチナにキリスト教聖地の問題から、西ヨーロッパの侵入をうけ、いわゆる十字軍戦争が勃発した。以後約160年間(1096-1254年)シリア海岸はイスラム・キリスト両教徒血戦のちまたとなり、東西両洋の交通貿易はこのために大きな障害をこうむらねばならなかった。世界的交通路の長期にわたる杜絶は必然的になんらかの副作用を招かずにはおかない。当時のヨーロッパ人にとって聖地の回復も熱望することであったが、戦争によって東方貿易路が閉塞し、必要な香料・調味料をインド方面から入手することができないのはいっそう困った問題であった。かれらはどんな手段に訴えても、当方の産物を獲得しようとした。この熱烈な要求に応じるためにかれらは黒海貿易路を開拓し始めた。これによればインドの物資はまず中央アジア、サマルカンド付近にで、そこからセルジュク・トルコ領を避けて北方に迂回し、黒海の北岸に沿ってヨーロッパに到達できるのである。この交通路はけっして新しいものではないが、いまや十字軍のためにシリア経由路が閉塞された結果、急に東西交通の大路として脚光を浴びて現われ、これに伴ってその沿線がまれに見る繁栄を誇るようになったのである。第四十字軍が目的地のシリアに向かわず、同盟国である東ローマ帝国を攻撃して、コンスタンチノープルを占領した目的は、かれらがこの新交通路のヨーロッパへの入口をおさえることにより、インド貿易の利益をほしいままにしようとする魂胆があってのことと察せられた。
 このような交通路線の変更の結果、中央アジアのサマルカンド付近からカスピ海、黒海の一帯は、インド物資の往来によって時ならぬ繁栄を示した。カラハン王朝を併合した西遼が南下してサマルカンドの領有を企てれば、セルジュク王朝から新しく独立したホラズム・トルコ王朝もまたその利益に垂涎し、ついに西遼を撃退してサマルカンドを確保するのに成功し、さらにインドへの通路に沿って領土を拡張してインド国境にまで到達した。こうしてインドから黒海にいたる交通路を占領したホラズム王朝はほとんどヨーロッパにたいしてインド物資供給の独占権をもつようになり、その領内には新首都サマルカンドをはじめ、ボカラ、メルヴ、ウルゲン等の諸都市がいずれも中継貿易都市として空前の繁昌を誇った。そしてホラズム王国からヨーロッパに達する中間にはなお黒海が横たわり、その北岸にはトルコ系のキプチャク人が同様の利益を享受して、富強に向かいつつあった。蒙古においてジンギス汗が出現したのはまさに、中央アジアでのこのような状態に際会したのである。中央アジアの繁栄が、蒙古人の掠奪の対象として指向されるのはまったく時機の問題にすぎなかった。

アジア史概説 (中公文庫)

宮崎市定『アジア史概説』中公文庫 pp.185-186

 インドに最初の大統一をもたらしたマウリア王朝のアショカ大王の即位は、ペルシアのダリウス大王に遅れること約250年である。アショカ王がしばしばその領土を巡航して新附の民に王者の威徳を知らせ、いたるところに碑銘を刻んで官吏民衆に訓戒を垂れ、あるいは監察政治を強化して人民の福利安定を増進させようとしたことは、明らかにダリウスの先例に習い、ペルシア政治様式を意識的に採用したものであろう。
 同様のことは、さらに約50年をおくれて中国に出現した秦の始皇帝の政治方針についてもいえる。始皇帝が六国を平定すると、たびたび地方を巡狩して石に刻んで功を記したことは、それ以前の中国ではほとんど見なかったことであり、東は燕斉にいたり南は呉楚にいたる馳道を造って遠隔の地を国都咸陽に結合し、文字を一定にし、貨幣の重量を定めたことなどはたんに偶然の一致としてだけでは見逃せないものである。西アジアと中国との交通は歴史の記載に現われるものを待つまでもなく、すでに有史以前から行なわれた実証があるから、それ以後、時に断続はあっても、意外に密接な連絡のあったことを想像した方が事実に近いであろう。

アジア史概説 (中公文庫)

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』朝日文庫 p.224

 高句麗はこれまでは利口であった。北朝にも南朝にも朝貢していた。ところが南北朝とも隋にほろぼされたとき、その大波を高句麗はもろにかぶってしまった。
 高句麗はあわてて、この時期、モンゴル高原にいる突厥という遊牧民族国家と同盟をむすんだ。隋にとってはこれは迷惑で、蕃国の連盟は辺境の脅威であるため、しつこく高句麗を攻めた。代わって唐帝国が出現すると、同様の理由で高句麗を攻めた。高句麗はそのつど果敢に防戦し、つねに大唐帝国の大軍を撃退した。朝鮮史上、最強の国家であったであろう。
 新羅は、それをみていた。
 「むしろ大唐帝国と結ぶべし」
 という知恵が、その国際的窮境のなかで当然湧いて出たのである。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』朝日文庫 p.221

 百済が、南朝(六朝)の文化を模倣したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。南朝は六代のどの王朝の貴族もはなはだしく仏教を溺愛した。仏寺の勢力はほとんど国家と拮抗し、貴族たちは国王を畏れるよりも仏罰をおそれ、極端にいえば仏事にほとんど淫したといえるほどの態度でおぼれた。この百済にとってはるかな揚子江以南の文化が、そのまま百済の体質になった。百済が、それよりも野蛮な新羅にほろぼされるのは、国家の独立よりも思想や芸術に惑溺するという江南の爛熟しきった文明体質をそのままうけ容れてしまったことにもよるし、六朝のほろびとともに百済はほろぶという不思議な結果をまねくのである。

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

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